semai92117’s diary

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タブレット

タブレットと言ったら、皆さん携帯型パソコンかスマホを連想するだろうが、私のような旧型テツオは、単線で列車の行き違いに必要な通行許可鍵を連想する。

原始的な保安システムで、単線の線路をある区間に分断して、その区間を通れる列車を、通行許可鍵を保有してる列車だけに限定して衝突を防止する方式になっている。

固有の鍵を設定した区間を閉塞と言って、他の列車の進入を許さず衝突を避ける仕組み。タブレットは、その鍵を閉塞区間の出入り口で受け渡しする為の入れ物で、列車から返却する時は設置された螺旋状の器具に運転助手が引っ掛けて置く。これから進入する区間の鍵の受け取りは、殆どの場合確認の為に係員からの手渡しで受け取る。

(受け渡しの際の衝撃で腕を怪我する事の対策で自動渡し装置もあった)

停車駅での受け渡しなら、ゆとりがあるが通過する駅で受け取り損なうと、悲惨だ。

列車を止めて、係員から受け取らなくてはならないからだ。

この時代には、運転助手は必須の乗務員で、保安方式が自動化された後も長らく乗務員二人態勢は残った。

その後赤字解消の為の合理化で運転士の一人乗務が当たり前になったけれど、最近では運転中に居眠りしたり、スマホを操作したり、果ては運転室から小用を繰り返し足していた乗務員まで現出して、改めて今度は補助要員でなく監視要員の配置が必要な状況になった事は誠に皮肉な現象。

職員の質や職務に対する責任感は、技術の進歩とは裏腹に著しく劣化したと言っても過言でないだろう。

最近各地で発生して新聞ネタを提供してる事件や事故の報道に接すると、情けないほどだらしない事例ばかりで、さぞかし嘗ての先輩たちは怒ってるだろうと思う。

 

進入先のタブレットを受け取る 函館本線熱郛駅にて

 

通過して来た区間タブレットを器具に返却 このタブレットは反対側に停止してる

列車に渡す 熱郛駅にて

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こじんまりとした熱郛の駅舎

宗谷本線

宗谷本線は旭川から稚内まで約260キロを結ぶ路線で、戦前は日露戦争終結時のポーツマス講和で一部が日本領土となった樺太への航路の連絡口として重要な幹線だった。

景勝地が多い北海道だけど不思議と沿線に景勝地が無く、樺太との往来を閉ざされた事もあって、戦後はすっかりローカル線になってしまった。

蒸気機関車を撮りに徘徊していた私に観光地は無縁で、周囲に全く木立の無い原野が広がる抜海、天塩川沿いの智東などで写真を撮った。当時は名寄、音威子府幌延の各駅で分岐する線があって、オホーツク海側、日本海側、内陸へ短絡する多様な路線が張り巡らされていたが、全部廃線にされてしまって益々利用者を減らしているのが現状。

沿線で撮った想い出の写真を記録して置く。

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サロベツ原野の向こうは日本海利尻富士の裾野に陽が落ちる。勇知、抜海間の車窓から。鉄道電話の電線が邪魔をする

 

ホームに建てられた風雅な待合室。建てた職員の遊び心なのか。大幹線時代の名残か

智東

 

原野を走るC55型機関車 幌延にて

 

水量豊かな天塩川に沿って走る。

 

二つ目玉

北海道の夏は霧の季節でもある。霧の摩周湖などという歌ができるほど霧の日が多い。

海水が冷たい、沿岸地帯では晴天の日でも朝晩霧に悩まされる地域もある。自動車でも霧が出ると眼前が真っ白になって前進するのが怖いが、ダイヤで走る時分秒まで決められてる鉄道にとっては厄介な大敵。遮断機の無い踏切が大多数の北海道では、人や車、果ては牛が居ても衝突は避けられない。

冬は冬で吹雪で視界はホワイトアウトして、これまた前方注視が困難になる。北海道の鉄道運転士にとって、視界の確保は切実な問題なのだ。

だから、現代でも北海道を走る車両には、これでもかと言う位に前照灯が幾つも装備されている。

蒸気機関車の場合には、更に運転室の前に長大なボイラーがあって普段から真正面は見えない。そんな背景から、前照灯を2つつけた2つ目玉の蒸気機関車が活躍していた。

苫小牧から太平洋側を襟裳岬に向けて海岸沿いを走る日高本線には、二つ目のC11型機関車が走っていたので、珍しさに釣られて撮りに出掛けた。

日高と言えばサラブレッド。昔から馬の産地だけれど、海岸線から日高山脈に向かって断崖が立ち上がる地形で霧の出やすい地形。海岸線を忠実にトレースして左右に蛇行する線路で、運転士はさぞかし苦労しただろうと思う。

他日襟裳岬から太平洋を望む絶景を求めて観光した時も、海面すら見えぬ真っ白けで、全くどんな景色なのか分からなかった。

日高本線は、行き止まりの盲腸線だから交通量は多くない。小型で性能の良いC11型が多数配置され活躍していた。

 

静内にて 見慣れたいつもの顔つきと違って何となく愛嬌がある

 

写真が傾いてるけど、反対側はこんな顔つきで、何となく間が抜けてる

 

 

釧網本線 北浜

蒸気機関車を追いかけて居ると、同好の士から自然と情報が集まって来る。インターネットなぞ無い時代だから、情報源は本や口コミである。

冬の北海道で写真を撮って居ると、何処で撮っても単調な背景になりがちなので、熱心な人達が捜して来たのが、流氷の海を背景に据えると言う事だった。

現代では、流氷ツアーが人気を集めてるが、温暖化の影響なのか流氷が来ないか、来ても小規模な事があるようだが、1960年台後半の頃は時期の変動こそあったが、毎年必ず接岸して地元の漁師は休業を強いられていた。

釧網本線は、名前の通り釧路と網走を結ぶローカル線で三浦綾子著作の氷点がTVドラマ化され、内藤陽子が主役で評判になった斜里から網走までオホーツク海の沿岸を走る。

斜里と網走の中間辺りの北浜で写真を撮った。

出掛けて見ると、北浜の駅は本当に海沿いで、平行する国道の方が線路より陸側を走っていた。積雪の為に線路と波打ち際の境が分からないから、本当に近いと感じた。

季節風の為に波浪で線路が流されないのか心配になる位の距離だった。

こんな海の近くで鉄道写真を撮ったのは初めてで、特に印象深い場所だった。

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海から遮る物が何も無い駅舎。雲の間から陽光が差して屋根に反射した

 

道路、線路、その向こうはオホーツク海

 

流氷をバックに念願の一枚。手前の道路に車が来なくて良かった。

 

長万部

長万部は、昔お笑いタレントが妙なアクセントと下品な振りでネタにして有名になったけれど、観光客は殆ど居ない町だ。近傍に惹きつける観光地が無いからだ。しかし、鉄道で北海道を訪れる人は必ず通る駅でもある。

1928年に東室蘭で北海道炭礦が室蘭と岩見沢間で石炭積出し用に敷設した路線を国が買収した室蘭本線と接続する迄は函館本線の駅だった。

小樽周りの函館本線に較べて急坂や曲線が少ない事や石炭、木材、農作物等の産地からの輸送には最適の路線で、函館本線に代わって人貨共に大動脈になった。

その分岐点に当たる長万部は、蒸気機関車撮りに出掛けた私には重要な撮影場所だった。何しろ函館から長大な貨物列車が頻繁に来る、そして函館本線室蘭本線からも来て、頻繁に出入りし、その間を方向別に貨車を仕分けする入れ替え作業が昼夜行われている活気ある駅だった。

駅はそんな活気に満ち溢れていたが、観光客の殆ど居ない町は静かだ。

町の東側海沿いには広大な原野が広がって、草樹も少ない荒野は冬は全くの墨絵の世界だった。それでも、当時は瀬棚、寿都、岩内等、日本海に面する寒村へ枝線があったので、それなりの乗り換え客がいたけれど、全て廃線になり車社会に変わった現代では、更に静かな町になっているだろうと思う。

人の出入りが少ない町には、昔の文化が変わらずに現代に続いている事が多い。

素の北海道の町の暮らしを知るには最適な町の一つだろう。

地元の住人の意思に反するとは思いつつも、変わらずに残って欲しいと思う町の一つだ。

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路線図の配置に各路線の性格が出ている

 

函館から長い貨物列車が到着した

小樽築港

北海道の近代化は小樽から始まったと言える。江戸時代から北前船の基地で古来舞鶴との間に頻繁な往来があった事と豊富なニシン漁場がすぐ近くにあった事もあって、経済の中心地として発展した。やがて内陸地帯への開拓の為に、移動手段として交通網の整備が始まった。北海道初の鉄道が敷設され、鉄道網構築の先駆けとなった。

小樽の街は港のすぐ傍まで丘陵が迫る狭隘地で埋め立てても足らず、湾に沿って町が展開された。だから、小樽の機関区は小樽から3駅目の小樽築港に設けられた。千歳周りが開通するまでは、札幌と函館を結ぶ大動脈で、羊蹄山の裾野を通る急峻な登山ルートの入り口に当たる為、狭い町に目一杯の大規模な機関区があった。

蒸気機関車が全廃された後も機関区跡地は長らく空き地だったが、観光地としての復活を目指して、大規模再開発され、外資の複合施設や俳優の石原記念館なども新設されて、全く往時の面影は跡形もなく消えてしまった。

初めて機関区を訪問したのは、1966年の夏で家族旅行の時に頼んで別行動させてもらって、一人で訪ねたのだが、何か危急の為にと預けられた千円札を途中で紛失してしまった、とても苦い想い出の地でもある。何しろ当時の千円だから相当の価値で、頭の中が真っ白になった。爾来私はお金を紛失した事が無いから、よほど堪えたのだと思う。

旅客の移動が苫小牧経由に変わって小樽は静かな町に変貌したが、明治時代の活気を伝える史跡や文化が香る町で、銀座や新宿と変わらぬ札幌よりも、北海道の旅情を残してる町だと思う。更に余市から積丹半島の絶景に接するにも好都合の場所で、道東の知床や道南の洞爺だけが北海道じゃないぞ、富良野のような新しく作った観光地でもないんだぞ。って宣伝したらどうかと思う。観光客に媚びずに歴史を伝える、私の好きな町だ。

 

1967年12月小樽築港にて

 

TVドラマに出演した9633号機

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端正な作りの機関区事務所

 

定山渓

北海道と言えば野趣溢れる温泉が各地にあって、有名所の別府や熱海などの温泉地とは全く違う魅力が溢れていた。お小遣いを貯めて蒸気機関車を撮りに遥々遠征していた貧乏学生には無縁だけれど、札幌の郊外に定山渓温泉があり道内で一山当てた成金や高給取りの人々の憩いの場所だった。昔風に言うと、札幌の奥座敷と言った場所だろう。

その定山渓温泉に遊びに行く人を当て込んだ鉄道が、定山渓鉄道だった。

私が出掛けた1968年頃には、既に経営が傾いて廃線の噂が出ていたので、出掛けた。

当時の北海道の国鉄は、蒸気機関車が主流で殆どが非電化だったが、定山渓鉄道は電化されていて、電車が走っていた。勿論市内を走る各地の市電は電車だったが、こちらは小型電車でなく立派な電車が走っていた。なかなかスマートな電車も居て、廃線後は他社に売却される程立派な車両だった。

日常飽きるほど電車を見ている私が、まともに電車を撮ろうと思ったのは、この時だろうと思われる。味のある古い車体と洗練されたスマートな電車が混在する不思議な鉄道だった記憶がある。

鉄道は廃止になったが、会社はバス運行へと変わり現在も定鉄バスとして続いている。

 

定鉄豊平駅にて

 

スマートな車体の2101