semai92117’s diary

想い出の記録 掲載写真の著作権を留保しますので無断転用はお断りです

炭礦鉄道 2

既に消滅してしまった炭礦鉄道で撮った記録を残して置く事にする。

私が訪ねた当時は既に廃止や閉山が決まった所も多く、車両や設備は荒廃していたし、廃車になって倉庫に放置された機関車も多数あった。

その殆どが解体され鉄屑となって消えてしまっているので、形が残っていた当時の記録として残しておく事にした。

 

雄別炭礦鉄道 釧路

 

典型的な米国スタイルの8722 雄別鉄道

 

転車台と車庫 雄別鉄道

 

日曹鉱業 豊富

 

国鉄9600型の初期生産ロットと同じS字型キャブの9615機

こじんまりとした日曹鉱業の車庫

 

 

採掘した石炭を運ぶ専用貨車

 

炭礦鉄道

つい先日全く偶然にBS放送で1997年に放送された夕張地区の炭礦鉄道の跡地を巡って歴史を振り返る番組が再放送されたのを見かけた。

最晩年の宮脇俊三氏が出演されていて驚いた。

廃止され既に相当の年月が経ち付近の様子も変貌を遂げているが、往時の記録と遺産をしっかり残している会社もあれば、廃墟に近い状態のままに放置されている所もあって、過去の歴史に向き合う姿勢の違いの落差が大きい事にも驚かされた。

人間でも何でも形ある物には必ず過去が存在し、その結果として今がある。過去ばかり振り返っても先は見通せないからと言っても過去を捨て去る事は不可能なのだから、大事にして欲しいと願わずにはいられない。

私が訪ねた頃は既に生産効率の悪い炭礦から廃山が始まっていて、閉山に向けて縮小を続けている時だったから、線路も車両も荒廃しかけていた。

元々炭礦鉄道の主役は産出した石炭の輸送で、人間は労働力である従業員の移動に便宜を図る事が第二の目的で、その他の乗客はついでに運ぶと言う事だと理解していたけれど、放送を見ると沿線の桜が見頃の時期には相当の行楽客を運んだ実績があった事を知った。

夕張地区には大夕張、夕張、真谷地と3つの炭礦があったと記憶してる。

いずれも最終的には国鉄に渡して積出し港まで運んで貰う為、接続駅までの短い路線と思い込んでいた。

ところが、放送で知った事だけど、室蘭港への積出しだけでなく、小樽港からの積出しの為にはるばる函館本線の野幌まで自社で路線を建設していたのだった。

推測だけれど、函館本線岩見沢から夕張への分岐駅である追分を経由して苫小牧、室蘭へ積み出す以前から小樽港からの積出しはあったのではないか。こちらの方が古かったのではないかと思う。夕張から室蘭本線の栗山駅を経由して函館本線野幌駅までのルートは最短で国鉄に合流できるルートで、今現在でも夕張へ行くには、もし残されていれば極めて便利に使える路線だと思う。

有数の炭鉱があった夕張は、大都市札幌から直線距離ではたいした事の無い距離だが鉄道では正に山間の僻地で特に閉山後は訪れるのも一苦労の地域だった。

石勝線が開通して釧路、帯広方面への大動脈として夕張の目と鼻の先をかすめて通っているのだけれど、夕張へ向かう列車は皆無。途中の接続も無いまま廃止されてしまった。

かつては日本の産業と生活を支えた石炭。その過去を荒廃した廃墟でしか知る事ができない事は誠に情けない限り。

夕張市は破産した町として極貧の中で僅かな職員が爪に灯を燈すような努力を日々続けている。私一人の力では如何ともできないけれど、何とか後世の若者達の為にも社会への貢献著しかった町の栄光の歴史を整備された環境で残しておきたいと願っている。

英国人は過去の歴史遺産を美しく残し守り続ける名人だ。庭園でも廃線にされた鉄道でも有志が基金を集めて、多くのボランティアの手で最盛期の美しさを保って永年に渡り維持管理され、人々は自分達も楽しみながら子供たちに体験させている。誠に羨ましい限り。

サッチャーの時代に手厚い社会補償財政が破綻し、高齢化が進む社会はそれほど豊かではないと思うのだけれど、日本人とはお金の使い方が違うのだろう。

グルメやプチ贅沢や自分へのご褒美も結構だけれど、こう言う使い方にも賛同する人が増えてくれると良いのだけれど、何とかならないものかな。

 

 

北炭真谷地で 当時でも古典型のD型機関車

 

大夕張で 空の石炭車を炭山へ戻す混合列車

 

大夕張 廃車になった名物E型(5軸)タンク機関車 何となく物悲しい雰囲気だった

 

蒸気機関士

現代では鉄道車両を運転する人は運転士と呼称しているが、私が撮り鉄してる時代には、機関車とディーゼル車を運転する人は機関士、電車は運転士と言っていた記憶がある。蒸気機関車は、走行を機関士が担当して、給炭をはじめとするその他一切を助手が担当して、二人で一組になって乗務していた。機関士になる為には雑役から始まって整備係を経験し試験に通って助手になって、やっと乗務勤務に就ける。

でも、ここからが正念場で、配属された担当区間で、どこでどの程度石炭をくべるのか、給水の状態はどこで確認するのか等々線区の特徴に合わせて順調にダイヤ通り走れる状態を作り出す術を会得する事が求められる。機関士ごとの癖もあるだろう。

定められた駅では、給炭と給水を受けるが自分も炭水車に上がって、積まれた石炭を走行中に給炭し易いように整備もする。更にそれまでに焚べた多量の石炭の燃え殻を落として、燃焼効率が上がるように火床を整備する。これらの作業を与えられた停車時間内に完了させなくてはならない。

これを担当区間区間に亘って行うのだから、現代風に言えば正に激務である。

夏場は暑気に加えてボイラと石炭の灼熱の前で乗務するし、冬には炭水車との間の開けた空間から冷気が吹き抜ける。長いトンネルの上り坂では、窒息しても給炭の手を止められないから命がけの業務でもあった。

実際に助手だけでなく機関士も気絶した事例が記録に残されているから本当に過酷な任務だった。見た目には颯爽とかっこ良く見えるが、現場は毎日が地獄と言っても良いほどきつかっただろう。

助手の経験を経て試験に合格してやっと、機関士になるから、殆どの人は助手の仕事を手伝える時には一緒にする。そうして、チームワークが出来上がると言う。

厳しい仕事だけど、お互いが息を合わせて安全運行を達成し、それを絶えず積み上げて行くのが、蒸気機関車の機関士・機関助手の日常なのだ。

現代の自動化された車両には無い、独特の思い入れがあるのは、仕事のきつさに加えて相棒との一致協力でやり遂げる達成感が、便利で楽な任務と違った快感として味わえるからなのだろうと勝手に想像している。

改めて、写真を撮らせて下さった皆さんに感謝して、想い出の記録とする。

 

機関士は走行に専念

 

ヘルメットの駅員と一緒に炭水車へ石炭の積み込み作業

 

ほっと一息。つかの間の休憩

タブレット

タブレットと言ったら、皆さん携帯型パソコンかスマホを連想するだろうが、私のような旧型テツオは、単線で列車の行き違いに必要な通行許可鍵を連想する。

原始的な保安システムで、単線の線路をある区間に分断して、その区間を通れる列車を、通行許可鍵を保有してる列車だけに限定して衝突を防止する方式になっている。

固有の鍵を設定した区間を閉塞と言って、他の列車の進入を許さず衝突を避ける仕組み。タブレットは、その鍵を閉塞区間の出入り口で受け渡しする為の入れ物で、列車から返却する時は設置された螺旋状の器具に運転助手が引っ掛けて置く。これから進入する区間の鍵の受け取りは、殆どの場合確認の為に係員からの手渡しで受け取る。

(受け渡しの際の衝撃で腕を怪我する事の対策で自動渡し装置もあった)

停車駅での受け渡しなら、ゆとりがあるが通過する駅で受け取り損なうと、悲惨だ。

列車を止めて、係員から受け取らなくてはならないからだ。

この時代には、運転助手は必須の乗務員で、保安方式が自動化された後も長らく乗務員二人態勢は残った。

その後赤字解消の為の合理化で運転士の一人乗務が当たり前になったけれど、最近では運転中に居眠りしたり、スマホを操作したり、果ては運転室から小用を繰り返し足していた乗務員まで現出して、改めて今度は補助要員でなく監視要員の配置が必要な状況になった事は誠に皮肉な現象。

職員の質や職務に対する責任感は、技術の進歩とは裏腹に著しく劣化したと言っても過言でないだろう。

最近各地で発生して新聞ネタを提供してる事件や事故の報道に接すると、情けないほどだらしない事例ばかりで、さぞかし嘗ての先輩たちは怒ってるだろうと思う。

 

進入先のタブレットを受け取る 函館本線熱郛駅にて

 

通過して来た区間タブレットを器具に返却 このタブレットは反対側に停止してる

列車に渡す 熱郛駅にて

f:id:semai92:20161002174345j:plain

こじんまりとした熱郛の駅舎

宗谷本線

宗谷本線は旭川から稚内まで約260キロを結ぶ路線で、戦前は日露戦争終結時のポーツマス講和で一部が日本領土となった樺太への航路の連絡口として重要な幹線だった。

景勝地が多い北海道だけど不思議と沿線に景勝地が無く、樺太との往来を閉ざされた事もあって、戦後はすっかりローカル線になってしまった。

蒸気機関車を撮りに徘徊していた私に観光地は無縁で、周囲に全く木立の無い原野が広がる抜海、天塩川沿いの智東などで写真を撮った。当時は名寄、音威子府幌延の各駅で分岐する線があって、オホーツク海側、日本海側、内陸へ短絡する多様な路線が張り巡らされていたが、全部廃線にされてしまって益々利用者を減らしているのが現状。

沿線で撮った想い出の写真を記録して置く。

f:id:semai92:20160927171057j:plain

サロベツ原野の向こうは日本海利尻富士の裾野に陽が落ちる。勇知、抜海間の車窓から。鉄道電話の電線が邪魔をする

 

ホームに建てられた風雅な待合室。建てた職員の遊び心なのか。大幹線時代の名残か

智東

 

原野を走るC55型機関車 幌延にて

 

水量豊かな天塩川に沿って走る。

 

二つ目玉

北海道の夏は霧の季節でもある。霧の摩周湖などという歌ができるほど霧の日が多い。

海水が冷たい、沿岸地帯では晴天の日でも朝晩霧に悩まされる地域もある。自動車でも霧が出ると眼前が真っ白になって前進するのが怖いが、ダイヤで走る時分秒まで決められてる鉄道にとっては厄介な大敵。遮断機の無い踏切が大多数の北海道では、人や車、果ては牛が居ても衝突は避けられない。

冬は冬で吹雪で視界はホワイトアウトして、これまた前方注視が困難になる。北海道の鉄道運転士にとって、視界の確保は切実な問題なのだ。

だから、現代でも北海道を走る車両には、これでもかと言う位に前照灯が幾つも装備されている。

蒸気機関車の場合には、更に運転室の前に長大なボイラーがあって普段から真正面は見えない。そんな背景から、前照灯を2つつけた2つ目玉の蒸気機関車が活躍していた。

苫小牧から太平洋側を襟裳岬に向けて海岸沿いを走る日高本線には、二つ目のC11型機関車が走っていたので、珍しさに釣られて撮りに出掛けた。

日高と言えばサラブレッド。昔から馬の産地だけれど、海岸線から日高山脈に向かって断崖が立ち上がる地形で霧の出やすい地形。海岸線を忠実にトレースして左右に蛇行する線路で、運転士はさぞかし苦労しただろうと思う。

他日襟裳岬から太平洋を望む絶景を求めて観光した時も、海面すら見えぬ真っ白けで、全くどんな景色なのか分からなかった。

日高本線は、行き止まりの盲腸線だから交通量は多くない。小型で性能の良いC11型が多数配置され活躍していた。

 

静内にて 見慣れたいつもの顔つきと違って何となく愛嬌がある

 

写真が傾いてるけど、反対側はこんな顔つきで、何となく間が抜けてる

 

 

釧網本線 北浜

蒸気機関車を追いかけて居ると、同好の士から自然と情報が集まって来る。インターネットなぞ無い時代だから、情報源は本や口コミである。

冬の北海道で写真を撮って居ると、何処で撮っても単調な背景になりがちなので、熱心な人達が捜して来たのが、流氷の海を背景に据えると言う事だった。

現代では、流氷ツアーが人気を集めてるが、温暖化の影響なのか流氷が来ないか、来ても小規模な事があるようだが、1960年台後半の頃は時期の変動こそあったが、毎年必ず接岸して地元の漁師は休業を強いられていた。

釧網本線は、名前の通り釧路と網走を結ぶローカル線で三浦綾子著作の氷点がTVドラマ化され、内藤陽子が主役で評判になった斜里から網走までオホーツク海の沿岸を走る。

斜里と網走の中間辺りの北浜で写真を撮った。

出掛けて見ると、北浜の駅は本当に海沿いで、平行する国道の方が線路より陸側を走っていた。積雪の為に線路と波打ち際の境が分からないから、本当に近いと感じた。

季節風の為に波浪で線路が流されないのか心配になる位の距離だった。

こんな海の近くで鉄道写真を撮ったのは初めてで、特に印象深い場所だった。

f:id:semai92:20160920145059j:plain

海から遮る物が何も無い駅舎。雲の間から陽光が差して屋根に反射した

 

道路、線路、その向こうはオホーツク海

 

流氷をバックに念願の一枚。手前の道路に車が来なくて良かった。