semai92117’s diary

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列車愛称のこと

昭和30年代後半から40年代の頃は全国に数多くの愛称がついた列車が走っていた。特急は元より急行や準急には全て愛称がついていたし、季節の臨時列車にも付けられたものもあった。

一つは乗客の乗り間違い防止や列車の識別、指定券販売の為席を特定させる事等々の理由があって付けられたと思う。

利用者の沿線を走る列車の愛称は、日常生活に入り込み使われただけに親しみを覚える名称が、当時を知る人それぞれにあるだろう。

ご贔屓の愛称が消えてしまうと、何となく寂しい気持ちになるのは、私だけでは無いと思う。一方で好きだった愛称が、自分の知る線区では無い地域で再び使われると、何となく違和感を感じたりもする。

最近の例では、長らく東京と九州を結んでいたブルートレイン特急だった「はやぶさ」が廃止になり、その記憶が薄れる前に東北新幹線に転用された時には、何となく、しっくりしない感覚が残った。

列車愛称は、コンピュータ管理による座席指定運用と関連して何度か変遷を遂げている。そして愛称の使い回しも、数多くの事例が残っていて、時代の変遷全てを記憶してる人は少ないと思われる。

だから、私が遭遇して、何となく愛着があったり記憶に残る愛称に出会うと、嬉しくなる。列車の写真を撮るのに夢中で、周りに溢れていた愛称をきちんと記録しておかなかった事は返す返すも残念でならない。

せめて、当時の一時期の記録として時刻表を自炊して記録に残しておく事にした。

現代は何でもネットで調べれば情報は得られるけれど、自分が接した記憶の記録は、事実と違ってるかも知れないが、愛着は強い。

熱海方面へ出かける時電車ばかりの中で走っていた「客車準急いでゆ」、いつも混んでた急行アルプスの影で空いていた「たてしな」などなど、とうの昔に消えてしまった愛称が懐かしく思い出される。

詳しいデータへのリンク 

日本の列車愛称一覧 - Wikipedia

 

 

急行那智 伊勢との2階建てで紀勢本線へ。 東京駅 当時は一両ずつサボと呼ばれる鉄板を人力で入れていた。 電光掲示板しか知らぬ若者はびっくりだろう。

 

急行電車にもヘッドマーク 二つ折り架替方式 いこま と なにわ

少ない特急を補完する俊足急行列車だった。

 

花形路線の東海道山陽本線優等列車たち。1965年8月時刻表

 

 

食堂車

新幹線網が拡大して鉄道の旅と言っても四時間乗ると言ったら、現代人の多数は飛行機で行けないかと考えるようになった。羽田と伊丹路線は今でも混雑していて三時間足らずでも空路を選ぶ人が多い事を物語っている。なにかと気ぜわしい時代になった。

1970年代には九州方面へ出かける人の殆どは24時間近く列車に乗って移動した。

幾ら節約したくても、3食弁当を持ち込む事は不可能だし何が入ってるか分からぬ幕の内弁当を買い求めるのも面倒と言う事で数少ない特急は勿論、長距離の急行列車には食堂車を繋いでいた。

酒飲みの父のおかげで、幼児の頃に連れて行って貰った記憶がうっすらと残っていて、何となく憧れの存在だった。

と言うのは、1972年に発生した北陸トンネンル事故では、火元が食堂車だった事から、原因究明の初期段階で発火源が石炭コンロではないかとの噂が広まり、旧式車両の台枠を再利用していて難燃対策が取りにくい多くの食堂車が廃車になってしまい、新幹線や新製車両の特急車を除いて連結されなくなってしまった為、機会がなかったからだ。

私の食堂車体験で一番多いのは、就職後の一時期堺筋の本社に勤務し、偶に実家へ戻る新幹線で度々食事をした事で常に細い通路に順番待ちの客が並ぶ中で、そそくさと食べて後続の人に席を空ける事が殆どで、内田百閒氏のように呑んだくれたまま、浜松から大津辺りまで居座るなどと言う不謹慎な事は到底許されなかった。

食堂の運営は日本食堂がほぼ全国区で受託していたらしいが、新幹線では都ホテルや帝国ホテルも請け負って味を競っていた。私は帝国ホテルが好みだった。

ちょっと横道だけど思い出したから書いておくと、長距離列車に乗ると車内販売が必ず乗車して適宜食料や飲料を売り歩いていたが、地域格差が極めて大きかった。

一番顕著だったのは、大阪を境に同じ値段でも質が格段に向上した記憶がある。

流石食道楽と言うだけの事はあって、幕の内弁当でも大阪以西の方が格段に美味しいし安い。この現象は新幹線でも引き継がれていたから、空きっ腹でも大阪からの売り子が来るのを待って買った記憶がある。

今は何とかパッセンジャーと称する鉄道会社直系の会社が独占で車販をしてるようだけれど、適性な競争原理が働かず、大阪人のサービス心旺盛な気持ちの良い買い物をする楽しみが無くなってしまった。

現代では、出来うる限り構内で買わずに近傍のコンビニで買った方がマシになってしまって旅の楽しみも半減。できれば我慢してでもご当地の食堂でも訪ねようと言う気になってしまうのは誠に残念だ。

最近は、再び走る列車で食を楽しむ事を目指してごく一部の列車で豪華な食事を提供しているが、とても庶民の手の届く額でなく私などバカバカしくて一度も利用していない。食にも環境にも分相応があって、一線を超えれば成金の世界。庶民の私が踏み込める世界ではない。

そんな事で、当時の食堂車のメニューを時刻表からスキャンして見た。

70年台に長距離旅行した人は、少なからず利用体験のある懐かしい食堂車の想い出。

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何と握り寿司や日本そばのメニューがあった。水菓子が時価なのは、内田百閒氏の時代から変わってない。

 

充分使えるマシ35型食堂車。廃車の表記が痛々しい。五稜郭にて

 

同じ車両の反対通路側

三鷹 1966年

三鷹駅を通る中央線は、松本方面への列車と高尾(昔は浅川)までの通勤路線が同じ線路を走っていた。更に名古屋から多治見を経て松本へ至る路線も中央線だが、戦前のように中央線経由で新宿から名古屋行の列車は無く、全て松本、長野へのアクセスとなっていた為、名古屋方を中央西線、新宿方を中央東線と呼んで区別している。

だから、三鷹を通る中央線は松本方面の列車については中央東線と呼称していた。

東線は、甲府までは小仏峠を初めとする勾配の多い難所であった事や兵員輸送の関係から、電化されていて貨物用の機関車に冬季には暖房車と呼ぶボイラを積んだ車両で石炭を炊いて作った蒸気を客車に送って暖房していた。

甲府から先は、甲府盆地の西の八ヶ岳に続く山岳路線で西線との分岐点の塩尻まで坂が続くけれど、長く非電化で蒸気機関車が走っていた。

戦後の復興が順調に進みレジャー客が増加するに連れ風光明媚な観光地だけでなく、一般に数が減る冬には名だたるスキー場が多く点在する事もあってか、この年に松本まで全線電化が完成し、歌にもなった特急あずさ号が誕生したし、ぴかぴかの新造車も登場した。

この方面の列車増発に不可欠な混雑緩和策として新宿と高尾間のうち、中野と三鷹間の複々線高架工事も完成し、国鉄初の地下鉄乗り入れ(東西線)も開始される事になった。(元々新宿と中野間は複々線だった)

中央東線近代化元年の1966年に開業前のお披露目が三鷹電車区で行われ地元の利で見学に行った。

先に触れたが、戦前の国鉄では軍需輸送の為に主要な都市間連絡について、必ず複数ルートを確保して万が一の有事に備えていた。東京と大阪には、東海道、中央、信越上越北陸経由と3つのルートが確保されいたし、仙台へは東北と常磐ルート、青森へは東北と羽越奥羽ルート等々重要拠点への複数アクセスを確保していた。

東北大震災でも三陸沿岸へ石油を運ぶのにこうした複数のルートがどれほど役立ったか。にも拘らず、その後の人口流出や元々の利用者減による不採算を理由として、バス代替輸送に置き換えられてしまっている。

後になって線路を引き直すのは、既存を保守するより膨大なコストが掛かる。鉄路のありがたさをきちんと記録に残して記憶が風化しない事を願っている。

その理由は、全国に新幹線網が構築されると同時に在来線は県毎に分断され地元資本の第三セクターに転じてしまっている。北陸新幹線が金沢まで通じて、現在も物流の大動脈である日本海縦貫線が石川、富山、新潟の3社に分断された。

関西方面から秋田方面へ物資を運ぶ為にはJR西、東の他に新たに三セク3社と交渉が必要になった。

新幹線開業で、観光客が増えると日の当たる面しか報道されないけれど、生活に直結してる物流の面では課題も生まれたのだ。震災等の非常時に、この課題が足かせとなって支障を来さぬよう願うばかりだ。

近い将来中央リニア新幹線が開業したら、やはり在来の中央線は分断されてしまうのか、そうなって欲しくないと願うばかりだ。

 

あずさ用特急車 181型

 

東西線乗り入れ 営団5000系 加速第一位に輝いた

 

国鉄初の地下鉄乗り入れ専用車 301系

 

三鷹電車区の一部 人力で洗車してたなんて誰も信じない日がすぐに来るだろう

ブログデザイン

記事を書いてる途中で突然デザインが変わってしまった。

以前のデザインを残して置かなかったので、元に戻せなくなってしまった。意図した変更ではないのだが、見にくかったり、イメージを損ねてしまう事があったら、お詫びします。

時間を掛けてでも少しでも見やすい表示に改めて参ります。

 

炭礦鉄道 2

既に消滅してしまった炭礦鉄道で撮った記録を残して置く事にする。

私が訪ねた当時は既に廃止や閉山が決まった所も多く、車両や設備は荒廃していたし、廃車になって倉庫に放置された機関車も多数あった。

その殆どが解体され鉄屑となって消えてしまっているので、形が残っていた当時の記録として残しておく事にした。

 

雄別炭礦鉄道 釧路

 

典型的な米国スタイルの8722 雄別鉄道

 

転車台と車庫 雄別鉄道

 

日曹鉱業 豊富

 

国鉄9600型の初期生産ロットと同じS字型キャブの9615機

こじんまりとした日曹鉱業の車庫

 

 

採掘した石炭を運ぶ専用貨車

 

炭礦鉄道

つい先日全く偶然にBS放送で1997年に放送された夕張地区の炭礦鉄道の跡地を巡って歴史を振り返る番組が再放送されたのを見かけた。

最晩年の宮脇俊三氏が出演されていて驚いた。

廃止され既に相当の年月が経ち付近の様子も変貌を遂げているが、往時の記録と遺産をしっかり残している会社もあれば、廃墟に近い状態のままに放置されている所もあって、過去の歴史に向き合う姿勢の違いの落差が大きい事にも驚かされた。

人間でも何でも形ある物には必ず過去が存在し、その結果として今がある。過去ばかり振り返っても先は見通せないからと言っても過去を捨て去る事は不可能なのだから、大事にして欲しいと願わずにはいられない。

私が訪ねた頃は既に生産効率の悪い炭礦から廃山が始まっていて、閉山に向けて縮小を続けている時だったから、線路も車両も荒廃しかけていた。

元々炭礦鉄道の主役は産出した石炭の輸送で、人間は労働力である従業員の移動に便宜を図る事が第二の目的で、その他の乗客はついでに運ぶと言う事だと理解していたけれど、放送を見ると沿線の桜が見頃の時期には相当の行楽客を運んだ実績があった事を知った。

夕張地区には大夕張、夕張、真谷地と3つの炭礦があったと記憶してる。

いずれも最終的には国鉄に渡して積出し港まで運んで貰う為、接続駅までの短い路線と思い込んでいた。

ところが、放送で知った事だけど、室蘭港への積出しだけでなく、小樽港からの積出しの為にはるばる函館本線の野幌まで自社で路線を建設していたのだった。

推測だけれど、函館本線岩見沢から夕張への分岐駅である追分を経由して苫小牧、室蘭へ積み出す以前から小樽港からの積出しはあったのではないか。こちらの方が古かったのではないかと思う。夕張から室蘭本線の栗山駅を経由して函館本線野幌駅までのルートは最短で国鉄に合流できるルートで、今現在でも夕張へ行くには、もし残されていれば極めて便利に使える路線だと思う。

有数の炭鉱があった夕張は、大都市札幌から直線距離ではたいした事の無い距離だが鉄道では正に山間の僻地で特に閉山後は訪れるのも一苦労の地域だった。

石勝線が開通して釧路、帯広方面への大動脈として夕張の目と鼻の先をかすめて通っているのだけれど、夕張へ向かう列車は皆無。途中の接続も無いまま廃止されてしまった。

かつては日本の産業と生活を支えた石炭。その過去を荒廃した廃墟でしか知る事ができない事は誠に情けない限り。

夕張市は破産した町として極貧の中で僅かな職員が爪に灯を燈すような努力を日々続けている。私一人の力では如何ともできないけれど、何とか後世の若者達の為にも社会への貢献著しかった町の栄光の歴史を整備された環境で残しておきたいと願っている。

英国人は過去の歴史遺産を美しく残し守り続ける名人だ。庭園でも廃線にされた鉄道でも有志が基金を集めて、多くのボランティアの手で最盛期の美しさを保って永年に渡り維持管理され、人々は自分達も楽しみながら子供たちに体験させている。誠に羨ましい限り。

サッチャーの時代に手厚い社会補償財政が破綻し、高齢化が進む社会はそれほど豊かではないと思うのだけれど、日本人とはお金の使い方が違うのだろう。

グルメやプチ贅沢や自分へのご褒美も結構だけれど、こう言う使い方にも賛同する人が増えてくれると良いのだけれど、何とかならないものかな。

 

 

北炭真谷地で 当時でも古典型のD型機関車

 

大夕張で 空の石炭車を炭山へ戻す混合列車

 

大夕張 廃車になった名物E型(5軸)タンク機関車 何となく物悲しい雰囲気だった

 

蒸気機関士

現代では鉄道車両を運転する人は運転士と呼称しているが、私が撮り鉄してる時代には、機関車とディーゼル車を運転する人は機関士、電車は運転士と言っていた記憶がある。蒸気機関車は、走行を機関士が担当して、給炭をはじめとするその他一切を助手が担当して、二人で一組になって乗務していた。機関士になる為には雑役から始まって整備係を経験し試験に通って助手になって、やっと乗務勤務に就ける。

でも、ここからが正念場で、配属された担当区間で、どこでどの程度石炭をくべるのか、給水の状態はどこで確認するのか等々線区の特徴に合わせて順調にダイヤ通り走れる状態を作り出す術を会得する事が求められる。機関士ごとの癖もあるだろう。

定められた駅では、給炭と給水を受けるが自分も炭水車に上がって、積まれた石炭を走行中に給炭し易いように整備もする。更にそれまでに焚べた多量の石炭の燃え殻を落として、燃焼効率が上がるように火床を整備する。これらの作業を与えられた停車時間内に完了させなくてはならない。

これを担当区間区間に亘って行うのだから、現代風に言えば正に激務である。

夏場は暑気に加えてボイラと石炭の灼熱の前で乗務するし、冬には炭水車との間の開けた空間から冷気が吹き抜ける。長いトンネルの上り坂では、窒息しても給炭の手を止められないから命がけの業務でもあった。

実際に助手だけでなく機関士も気絶した事例が記録に残されているから本当に過酷な任務だった。見た目には颯爽とかっこ良く見えるが、現場は毎日が地獄と言っても良いほどきつかっただろう。

助手の経験を経て試験に合格してやっと、機関士になるから、殆どの人は助手の仕事を手伝える時には一緒にする。そうして、チームワークが出来上がると言う。

厳しい仕事だけど、お互いが息を合わせて安全運行を達成し、それを絶えず積み上げて行くのが、蒸気機関車の機関士・機関助手の日常なのだ。

現代の自動化された車両には無い、独特の思い入れがあるのは、仕事のきつさに加えて相棒との一致協力でやり遂げる達成感が、便利で楽な任務と違った快感として味わえるからなのだろうと勝手に想像している。

改めて、写真を撮らせて下さった皆さんに感謝して、想い出の記録とする。

 

機関士は走行に専念

 

ヘルメットの駅員と一緒に炭水車へ石炭の積み込み作業

 

ほっと一息。つかの間の休憩