semai92117’s diary

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2016年の私の想い出

バタバタと日常を過ごしているうちに、大晦日になってしまった。

今年の想い出として残しておきたいと考えているのが、渋谷駅を中心とした開発事業で消滅してしまった想い出深い景色だ。

いとこが東横線沿線に住んでいた為に割と頻繁に乗車した渋谷駅の独特の姿は、今年消えてしまった。

日々姿を変える東京の街だから、何れ無くなるだろうと漠然と思っていたけれど、実際に消えてしまうと何とも物足りない気がする。

開発工事の話は随分前から話題になっていたので、折にふれて記録に残した。何せ地上にあった終端駅が、地下に潜って中間駅に変わったのだから、ひと駅前の代官山から山手線を越えて神田川沿いに走る高架線全部が廃止された。その辺りは空が開けたように開放されたから、住民はさぞ喜んだろうと想像する。

地域開発は当分続くのだが、廃止された地上構築物の撤去は相当の速さで進んで、次に見た時には痕跡も見つからぬほど進捗が早かった。

少しづつ消えて別れを惜しむと言うような悠長さではなく、忽然と消えた気がする。

もう写真でしか見れないと思うと、寂しく感じるのは歳のせい・・・

恐る恐る始めたブログを見て下さった方に、感謝致します。

ありがとうございました。

 

渋谷のシンボルかまぼこ屋根に風よけ側壁、奥は東急百貨店

 

銀座線がデパートから出てくる。

 

山手線を高架で越える代官山付近

 

急カーブで川沿いに終点の渋谷駅方向へ  既に撤去工事の養生が始まっていた

 

 

 

都電銀座線

都心の中心地銀座4丁目の交差点を走る都電銀座線は、1967年12月9日に廃止された。車の走行に邪魔で危険であるとの理由だった。

この日は偶然にも母が属していたアマチュア合唱団の定期公演を聴きに出かける用があったので、最後の日を見に出掛けた。

当時は現代のように何かが終わると言うと黒山のような人が集まり警備員が出動すると言うような騒ぎは起こらず静かなものだったが、この時は沿線に驚くほど人が集まって見送っていたのが強く印象に残っている。

鉄チャンだけでなく、庶民の足として多くの人が別れを惜しんでいたのだと思った。

私が見た時は、乗車する人で長い列が道路の真ん中に出来て、警官が出て交通整理をする程の人出だった。

東京だけでなく、自動車の増加は全国各地で細々と走っていた路面電車の多くを駆逐してしまったが、皮肉な事にそれから半世紀も立たぬ内に見直され、今多くの都市で復活、あるいは新しく路線を作る動きが出てきている。

高齢化社会は、戦後のベビーブームで生まれた人達が高齢化して現出している。彼等が戦争で失われた労働力として高度成長を実現し邪魔になった昔の乗り物を排除したが、老齢になり車が使えなくなると、近所を走る路面電車が便利に見えてくる。丁度同じサイクルで消滅と復活が起こっている事も興味深い。

環境問題も勿論理由の一つかも知れないけれど、高齢者が運転する車が全国で暴走して死傷事故が頻発する事象を見ても、身近な乗り物で代替して高齢者の運転を止めさせる為の手段の一つとして町の中心部を走る路面電車の価値は大きいだろう。

慢性的な中心部の渋滞に悩む宇都宮市が新設しようと計画中である事は、今後他の地方都市へも波及するに違いないと思う。

しかし、何度も書いたように、線路を新しく敷設する事は膨大な費用と時間がかかる。願わくば、現在存在している線路は、例え廃線になろうとも、将来復活の可能性が皆無でない限りは路盤と共に残しておいて欲しいと思っている。

実際、都内を網の目のように走っていた都電の線路と路盤を存置したまま舗装した場所が僅かながらある。もし、復活させようとなったら、その区域は舗装を剥がすだけで、昔の鉄路が出てくる。レールを代える必要はあるが、新設するより簡単で早い。

都市計画は百年の計と言われる。目先の問題だけでなく将来を俯瞰したムダのない計画が強く望まれる。既存の設備を過去の邪魔物として壊す事が一番手っ取り早く簡単な事は承知してるが、これからの若い世代の方々には、従来のスクラップアンドビルド方式を今一度考えなおして見て欲しいと願っている。

欧州の主要な都市は超成熟都市だが、今だに日本の京都や奈良に代表されるような、躯体を残す更新建築が多数を占めている。翻って東京を初めとする地方都市では、相変わらず破壊と新造が主流だ。地震国だから基準が変わり古い建物は危険と言う思想が、全ての分野に浸透して、新しい事が安心や安全に必須と考える傾向が強い事は充分に理解できる。

だが、将来に亘って使える物まで無闇に壊してしまう事は無いだろう。新しい技術や知恵を集めて、末永く使う事も是非選択肢の一つに入れる社会になって欲しいと願う。

 

お別れ乗車に多くの人が詰めかけた。銀座4丁目電停

 

 

最終日は電飾をつけて走った。

 

車に埋もれて走る。 須田町交差点

 

 

こんな状態でも邪魔にされたのか新造車が勿体無い。神田にて

 

東京都心の雪

先日東京で11月に積雪があった事が大きなニュースになっていた。たった2cm足らずの降雪に大騒ぎのTV局はともかく、都民の足である鉄道が混乱したのには呆れてしまった。

量が少ないとは言え、毎年数回は東京でも降雪が発生しているのだから、この程度の雪でダイヤ通り走れない交通機関では、公共交通機関として使命を果たしてるとは言えないだろう。

基より安全輸送が第一である事は当然だけれど、2cmの雪で安全と定時運行が両立できない程の脆弱さでは、都民を初めとする近郊住民の足としては著しく能力不足であろう。外国人観光客誘致の政府方針で訪れた寒冷地の外国人は呆れ果てるだろう。

私の小学生時代は、毎年もれなく扁桃腺を腫らして熱を出していたので、当時流行っていた扁桃腺除去手術を母は真剣に考えていたようだった。そんな事もあってか、小学生時代でも雪は降ったと思うけれど雪遊びの記憶は残っていない。因みに私の扁桃腺は中学に行く頃には頻繁に腫れる事も無くなり、無事今日まで私とともに存在してる。

撮り鉄としては、都心の雪は普段見慣れた光景を一変させる僥倖だから、授業日でなければ寒さを押して被写体を求めた。その際には現代のように「運転見合わせ」などという安直な措置は全く無く多少の混乱はあっても、兎に角支障なく東京駅でも新宿駅でも行けた。

手元に残る写真の記録では、1969年3月12日にはあちこちで写真を撮ったようで、かなりの大雪だったらしい。それでも、毎年数日は雪だるまが沢山作れる程の積雪が東京でもあったから、都市がマヒする事もなく過ぎ去ったような気がする。

先日の雪では、奥多摩と青梅間、中央線が高尾と大月間が不通となり、その他私鉄でも各所で乱れが生じて終日大混乱した。

学生時代は、降雪があると作業員が総出で転轍機にカンテラを置いて凍結防止対策をしたり、駅の除雪作業を必死で続けて運行を確保していたが、現代では殆どの駅が減員されたり、或いは改札口に一人でホームは無人と言う態勢だから、幾ら積もろうが除雪作業など不可能だろう。転轍機もヒーターで融雪するので、保線作業員が大幅に減員されてしまっている。

だから、事積雪と鉄道に関しては、人手が多かった昔のほうが何でも自動化して人が少ない現代より遥かに乗客に優しく足を滑らせる事も少なかったし まともに走った。

客も係員も多い東京ですらこんな状態だから、地方の豪雪地帯は更に悲惨な状態で、長野県と新潟県を結ぶ飯山線や、福島県と結ぶ只見線などは最初から除雪を放棄して積雪期間は運転休止になってしまった。移動は車でどうぞと言う事だろうが、積雪の峠道を車で走るのは正に命がけ、鉄道が一番安全な手段なのに、肝心の鉄道が役割を放棄してしまっている。経営者の本心は「儲からないから廃線」と言う事で鉄道離れに拍車を掛ける為に不通にしているのだろう。

現代では雪と戦うのは新幹線だけ。地方路線は廃線できるように利用客を減らす経営方針だとしか思えない状況になっている。

技術や知恵が発展したからと言って、何事も進化してる訳じゃないと言う見本のような現象が起きている。

「2cmの降雪で沿線の樹木が架線に垂れ下がり運転見合わせ」こんな情報がまかり通る現代を昔の鉄道員が聞いたら、笑い者にされるか、罵倒されるかの何れであろうか。

 

当時の記録でこの日の積雪は33cm 道路埋設線路の都電は大変だっただろう。

 

 

既にレールが埋まる積雪でも山手も横須賀線も走ってた

 

 

中央線快速も特急あずさも頑張って走っていた 新宿も線路が埋まる積雪

現代では、こうなる前に全部止めるので、こういう写真は撮れないのだろう。

 

御茶ノ水

都内には数多くの鉄道駅があるが、御茶ノ水駅ほど変化に満ちた地形に建つ駅は珍しい。何しろ神田川の護岸の擁壁にへばりつくように作られ、対岸は水道橋方から秋葉原方に向けて急な下り坂になっていて、視界が開けている。更に地下鉄丸ノ内線が護岸を突き破るように川面すれすれに神田川を渡る立体交差があって、中央線、総武線丸ノ内線を画角に捉える事も可能なポイントがある。

そんな景色になる前、遥か昔の昭和7年7月に御茶ノ水と両国を結ぶ新線が落成した。

つい先日模様替えの為に古い書棚を移動した際に偶然先祖が関わった事が分る鉄道省の資料が出てきた。御茶ノ水両国間高架線建設概要と記された冊子の扉の内側に、開通前日の6月30日にお披露目する臨時列車への招待状が挟まれていた。

それまでの総武線両国駅が起点で房総方面への列車は全て両国発着であったが、都心へ直接乗り入れて利便性向上を図る為に実施されたと言う。随分前から計画はあったらしいが、偶然にも関東大震災で東京が灰燼に帰し、その復興整備の一環として新線の建設が実行された事が記されていた。

それでも、御茶ノ水駅の狭隘な地形には難渋したらしく、更に既にあった中央線を短い距離で乗り越える為に33パーミルと言う急坂にし、すぐに道路を越える鉄橋へと続く線路の建設は大変だったろうと容易に想像がつく。当時の技術力で、よくぞ短期間で完成させたものだと、一翼を担った先祖の努力に少し誇らしい気持ちがした。

そんな事なぞ露ほども知らずに、ただここの風景に惹かれて何度も撮りに出掛けた場所だから、尚更驚いてしまった。人に歴史ありとは言い得て妙だと感じた。

 

総武線が行き交う神田川上の急坂

 

地下鉄丸の内線とも立体交差

 

昭和7年資料より(表記は右から左へ)工事中の写真

 

 

 

 

 

 

列車愛称のこと

昭和30年代後半から40年代の頃は全国に数多くの愛称がついた列車が走っていた。特急は元より急行や準急には全て愛称がついていたし、季節の臨時列車にも付けられたものもあった。

一つは乗客の乗り間違い防止や列車の識別、指定券販売の為席を特定させる事等々の理由があって付けられたと思う。

利用者の沿線を走る列車の愛称は、日常生活に入り込み使われただけに親しみを覚える名称が、当時を知る人それぞれにあるだろう。

ご贔屓の愛称が消えてしまうと、何となく寂しい気持ちになるのは、私だけでは無いと思う。一方で好きだった愛称が、自分の知る線区では無い地域で再び使われると、何となく違和感を感じたりもする。

最近の例では、長らく東京と九州を結んでいたブルートレイン特急だった「はやぶさ」が廃止になり、その記憶が薄れる前に東北新幹線に転用された時には、何となく、しっくりしない感覚が残った。

列車愛称は、コンピュータ管理による座席指定運用と関連して何度か変遷を遂げている。そして愛称の使い回しも、数多くの事例が残っていて、時代の変遷全てを記憶してる人は少ないと思われる。

だから、私が遭遇して、何となく愛着があったり記憶に残る愛称に出会うと、嬉しくなる。列車の写真を撮るのに夢中で、周りに溢れていた愛称をきちんと記録しておかなかった事は返す返すも残念でならない。

せめて、当時の一時期の記録として時刻表を自炊して記録に残しておく事にした。

現代は何でもネットで調べれば情報は得られるけれど、自分が接した記憶の記録は、事実と違ってるかも知れないが、愛着は強い。

熱海方面へ出かける時電車ばかりの中で走っていた「客車準急いでゆ」、いつも混んでた急行アルプスの影で空いていた「たてしな」などなど、とうの昔に消えてしまった愛称が懐かしく思い出される。

詳しいデータへのリンク 

日本の列車愛称一覧 - Wikipedia

 

 

急行那智 伊勢との2階建てで紀勢本線へ。 東京駅 当時は一両ずつサボと呼ばれる鉄板を人力で入れていた。 電光掲示板しか知らぬ若者はびっくりだろう。

 

急行電車にもヘッドマーク 二つ折り架替方式 いこま と なにわ

少ない特急を補完する俊足急行列車だった。

 

花形路線の東海道山陽本線優等列車たち。1965年8月時刻表

 

 

食堂車

新幹線網が拡大して鉄道の旅と言っても四時間乗ると言ったら、現代人の多数は飛行機で行けないかと考えるようになった。羽田と伊丹路線は今でも混雑していて三時間足らずでも空路を選ぶ人が多い事を物語っている。なにかと気ぜわしい時代になった。

1970年代には九州方面へ出かける人の殆どは24時間近く列車に乗って移動した。

幾ら節約したくても、3食弁当を持ち込む事は不可能だし何が入ってるか分からぬ幕の内弁当を買い求めるのも面倒と言う事で数少ない特急は勿論、長距離の急行列車には食堂車を繋いでいた。

酒飲みの父のおかげで、幼児の頃に連れて行って貰った記憶がうっすらと残っていて、何となく憧れの存在だった。

と言うのは、1972年に発生した北陸トンネンル事故では、火元が食堂車だった事から、原因究明の初期段階で発火源が石炭コンロではないかとの噂が広まり、旧式車両の台枠を再利用していて難燃対策が取りにくい多くの食堂車が廃車になってしまい、新幹線や新製車両の特急車を除いて連結されなくなってしまった為、機会がなかったからだ。

私の食堂車体験で一番多いのは、就職後の一時期堺筋の本社に勤務し、偶に実家へ戻る新幹線で度々食事をした事で常に細い通路に順番待ちの客が並ぶ中で、そそくさと食べて後続の人に席を空ける事が殆どで、内田百閒氏のように呑んだくれたまま、浜松から大津辺りまで居座るなどと言う不謹慎な事は到底許されなかった。

食堂の運営は日本食堂がほぼ全国区で受託していたらしいが、新幹線では都ホテルや帝国ホテルも請け負って味を競っていた。私は帝国ホテルが好みだった。

ちょっと横道だけど思い出したから書いておくと、長距離列車に乗ると車内販売が必ず乗車して適宜食料や飲料を売り歩いていたが、地域格差が極めて大きかった。

一番顕著だったのは、大阪を境に同じ値段でも質が格段に向上した記憶がある。

流石食道楽と言うだけの事はあって、幕の内弁当でも大阪以西の方が格段に美味しいし安い。この現象は新幹線でも引き継がれていたから、空きっ腹でも大阪からの売り子が来るのを待って買った記憶がある。

今は何とかパッセンジャーと称する鉄道会社直系の会社が独占で車販をしてるようだけれど、適性な競争原理が働かず、大阪人のサービス心旺盛な気持ちの良い買い物をする楽しみが無くなってしまった。

現代では、出来うる限り構内で買わずに近傍のコンビニで買った方がマシになってしまって旅の楽しみも半減。できれば我慢してでもご当地の食堂でも訪ねようと言う気になってしまうのは誠に残念だ。

最近は、再び走る列車で食を楽しむ事を目指してごく一部の列車で豪華な食事を提供しているが、とても庶民の手の届く額でなく私などバカバカしくて一度も利用していない。食にも環境にも分相応があって、一線を超えれば成金の世界。庶民の私が踏み込める世界ではない。

そんな事で、当時の食堂車のメニューを時刻表からスキャンして見た。

70年台に長距離旅行した人は、少なからず利用体験のある懐かしい食堂車の想い出。

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何と握り寿司や日本そばのメニューがあった。水菓子が時価なのは、内田百閒氏の時代から変わってない。

 

充分使えるマシ35型食堂車。廃車の表記が痛々しい。五稜郭にて

 

同じ車両の反対通路側

三鷹 1966年

三鷹駅を通る中央線は、松本方面への列車と高尾(昔は浅川)までの通勤路線が同じ線路を走っていた。更に名古屋から多治見を経て松本へ至る路線も中央線だが、戦前のように中央線経由で新宿から名古屋行の列車は無く、全て松本、長野へのアクセスとなっていた為、名古屋方を中央西線、新宿方を中央東線と呼んで区別している。

だから、三鷹を通る中央線は松本方面の列車については中央東線と呼称していた。

東線は、甲府までは小仏峠を初めとする勾配の多い難所であった事や兵員輸送の関係から、電化されていて貨物用の機関車に冬季には暖房車と呼ぶボイラを積んだ車両で石炭を炊いて作った蒸気を客車に送って暖房していた。

甲府から先は、甲府盆地の西の八ヶ岳に続く山岳路線で西線との分岐点の塩尻まで坂が続くけれど、長く非電化で蒸気機関車が走っていた。

戦後の復興が順調に進みレジャー客が増加するに連れ風光明媚な観光地だけでなく、一般に数が減る冬には名だたるスキー場が多く点在する事もあってか、この年に松本まで全線電化が完成し、歌にもなった特急あずさ号が誕生したし、ぴかぴかの新造車も登場した。

この方面の列車増発に不可欠な混雑緩和策として新宿と高尾間のうち、中野と三鷹間の複々線高架工事も完成し、国鉄初の地下鉄乗り入れ(東西線)も開始される事になった。(元々新宿と中野間は複々線だった)

中央東線近代化元年の1966年に開業前のお披露目が三鷹電車区で行われ地元の利で見学に行った。

先に触れたが、戦前の国鉄では軍需輸送の為に主要な都市間連絡について、必ず複数ルートを確保して万が一の有事に備えていた。東京と大阪には、東海道、中央、信越上越北陸経由と3つのルートが確保されいたし、仙台へは東北と常磐ルート、青森へは東北と羽越奥羽ルート等々重要拠点への複数アクセスを確保していた。

東北大震災でも三陸沿岸へ石油を運ぶのにこうした複数のルートがどれほど役立ったか。にも拘らず、その後の人口流出や元々の利用者減による不採算を理由として、バス代替輸送に置き換えられてしまっている。

後になって線路を引き直すのは、既存を保守するより膨大なコストが掛かる。鉄路のありがたさをきちんと記録に残して記憶が風化しない事を願っている。

その理由は、全国に新幹線網が構築されると同時に在来線は県毎に分断され地元資本の第三セクターに転じてしまっている。北陸新幹線が金沢まで通じて、現在も物流の大動脈である日本海縦貫線が石川、富山、新潟の3社に分断された。

関西方面から秋田方面へ物資を運ぶ為にはJR西、東の他に新たに三セク3社と交渉が必要になった。

新幹線開業で、観光客が増えると日の当たる面しか報道されないけれど、生活に直結してる物流の面では課題も生まれたのだ。震災等の非常時に、この課題が足かせとなって支障を来さぬよう願うばかりだ。

近い将来中央リニア新幹線が開業したら、やはり在来の中央線は分断されてしまうのか、そうなって欲しくないと願うばかりだ。

 

あずさ用特急車 181型

 

東西線乗り入れ 営団5000系 加速第一位に輝いた

 

国鉄初の地下鉄乗り入れ専用車 301系

 

三鷹電車区の一部 人力で洗車してたなんて誰も信じない日がすぐに来るだろう