semai92117’s diary

想い出の記録 掲載写真の著作権を留保しますので無断転用はお断りです

お詫び

いつの間にか気づいたら 自分が意図した場所での段落取りが反映されずに機械的に改行されて 不適切な場所での改行やら段落表示になって 大変お見苦しい状態になっている。気づいて何度も編集を試みたが上手く行かず 結局諦めて読みにくいのを放置したまま記…

お一人様

母を送ってから、家族が気ままに過ごす日常を大切にしようと思い立った。 定年退職後に家事代行見習いとして訓練を受けて少しだけ分担できるようにして、思い思いの気ままな生活をしても負担にならぬようになって、安心して余暇を楽しむ環境ができた。 そん…

世代交代

記事更新が長い間滞ってしまったが、この間サポート切れのOSと決別すべく、悪戦苦闘していた。家族の分も含め自作で通していたけれど、XP終了後は技術革新が進み、部分的な更新が不可能となり、製品購入の方が自作より安い状況に変化してしまっていた。最後…

青函連絡船

今年に入ってすぐの頃、ふとしたきっかけで東洋経済の「北海道新幹線4時間の壁を超えられるか」と言う記事を見かけた。 現在は函館郊外の新北斗なる駅まで暫定開業しているが、最終目的地は札幌で延伸工事が進められている。将来全線開業に向けて解決すべき…

呉線に残った大型蒸気機関車

関東人にとって大阪以西は現代の感覚より遥かに遠い地域だった。大阪迄だって夜行でたっぷり一晩掛かっていた時代。東京からは、九州方面行の列車は概ね午前中に発車して大阪は真夜中で岡山を過ぎた辺りでようやく朝を迎える。何より学生の特権の学割でも交…

米原 1968年

東海道線の米原駅は、北陸本線と東海道本線の分岐点だった。敦賀から青森へ達する裏日本縦貫線(現在はマスコミの言葉狩りで裏日本は禁止らしい)と、東海道の大動脈が分岐する交通の要衝であった。 現在は湖西線が出来て、大阪京都方面からは湖西経由で、東…

八王子機関区 1967年

八王子は鎌倉街道に象徴される古来からの交通の要衝地。明治以降は絹製品の集散地として繁栄したのも、その立地に由来したのだろう。周辺には多数の古戦場や城址が残り、歴史を今に伝えている。 人の往来に合わせて主要な街道沿いに鉄道は建設されたから、初…

七飯 1969年

七飯は函館から札幌へ向かう列車が遭遇する最初の試練の場所。海沿いの函館から高原地帯にある大沼に向かって広大な上り坂がある場所だ。鉄道でも車でも北海道の広大な風景を目の当たりにする所で、私はこの景色を見て北海道に来た事を実感する。 函館に向か…

総武本線1967年

総武線は東京から千葉で別れて東京湾沿いの内房方面や佐倉、銚子など、外房方面に達する多彩な列車が走る幹線で、当時は総武本線と呼称されていた。 また、中央線の中野駅を起点として御茶ノ水まで中央線と並走している通勤通学路線も両国から千葉までは一緒…

八高線 1967年

八高線は文字通り東京の八王子と群馬県高崎(倉賀野)を結ぶローカル線だが、首都圏を迂回して関東北部に連絡する物資輸送の幹線だった。また奥多摩から産出する石灰岩と製品としてのセメントを運ぶ路線でもあって、旅客より貨物列車が多い路線で、当時は頻…

雪との戦い

昨年山梨県で記録的な降雪があって、中央線が数日に亘って不通となってしまった。 その時のJR東日本の釈明が、除雪車不足と言う理由だった事に驚いてしまった。 確かに異例の積雪量であろうが、お隣の長野北部には豪雪地帯が数多くあるし、北は青森から山形…

2016年の私の想い出

バタバタと日常を過ごしているうちに、大晦日になってしまった。 今年の想い出として残しておきたいと考えているのが、渋谷駅を中心とした開発事業で消滅してしまった想い出深い景色だ。 いとこが東横線沿線に住んでいた為に割と頻繁に乗車した渋谷駅の独特…

都電銀座線

都心の中心地銀座4丁目の交差点を走る都電銀座線は、1967年12月9日に廃止された。車の走行に邪魔で危険であるとの理由だった。 この日は偶然にも母が属していたアマチュア合唱団の定期公演を聴きに出かける用があったので、最後の日を見に出掛けた。 当時…

東京都心の雪

先日東京で11月に積雪があった事が大きなニュースになっていた。たった2cm足らずの降雪に大騒ぎのTV局はともかく、都民の足である鉄道が混乱したのには呆れてしまった。 量が少ないとは言え、毎年数回は東京でも降雪が発生しているのだから、この程度の…

御茶ノ水

都内には数多くの鉄道駅があるが、御茶ノ水駅ほど変化に満ちた地形に建つ駅は珍しい。何しろ神田川の護岸の擁壁にへばりつくように作られ、対岸は水道橋方から秋葉原方に向けて急な下り坂になっていて、視界が開けている。更に地下鉄丸ノ内線が護岸を突き破…

列車愛称のこと

昭和30年代後半から40年代の頃は全国に数多くの愛称がついた列車が走っていた。特急は元より急行や準急には全て愛称がついていたし、季節の臨時列車にも付けられたものもあった。 一つは乗客の乗り間違い防止や列車の識別、指定券販売の為席を特定させる…

食堂車

新幹線網が拡大して鉄道の旅と言っても四時間乗ると言ったら、現代人の多数は飛行機で行けないかと考えるようになった。羽田と伊丹路線は今でも混雑していて三時間足らずでも空路を選ぶ人が多い事を物語っている。なにかと気ぜわしい時代になった。 1970年代…

三鷹 1966年

三鷹駅を通る中央線は、松本方面への列車と高尾(昔は浅川)までの通勤路線が同じ線路を走っていた。更に名古屋から多治見を経て松本へ至る路線も中央線だが、戦前のように中央線経由で新宿から名古屋行の列車は無く、全て松本、長野へのアクセスとなってい…

ブログデザイン

記事を書いてる途中で突然デザインが変わってしまった。 以前のデザインを残して置かなかったので、元に戻せなくなってしまった。意図した変更ではないのだが、見にくかったり、イメージを損ねてしまう事があったら、お詫びします。 時間を掛けてでも少しで…

炭礦鉄道 2

既に消滅してしまった炭礦鉄道で撮った記録を残して置く事にする。 私が訪ねた当時は既に廃止や閉山が決まった所も多く、車両や設備は荒廃していたし、廃車になって倉庫に放置された機関車も多数あった。 その殆どが解体され鉄屑となって消えてしまっている…

炭礦鉄道

つい先日全く偶然にBS放送で1997年に放送された夕張地区の炭礦鉄道の跡地を巡って歴史を振り返る番組が再放送されたのを見かけた。 最晩年の宮脇俊三氏が出演されていて驚いた。 廃止され既に相当の年月が経ち付近の様子も変貌を遂げているが、往時の記…

蒸気機関士

現代では鉄道車両を運転する人は運転士と呼称しているが、私が撮り鉄してる時代には、機関車とディーゼル車を運転する人は機関士、電車は運転士と言っていた記憶がある。蒸気機関車は、走行を機関士が担当して、給炭をはじめとするその他一切を助手が担当し…

タブレット

今タブレットと言ったら、皆さん携帯型パソコンかスマホを連想するだろうが、私のような旧型テツオは、単線で列車の行き違いに必要な通行許可鍵を連想する。 原始的な保安システムで、単線の線路をある区間に分断して、その区間を通れる列車を、通行許可鍵を…

宗谷本線

宗谷本線は旭川から稚内まで約260キロを結ぶ路線で、戦前は日露戦争終結時のポーツマス講和で一部が日本領土となった樺太への航路の連絡口として重要な幹線だった。 景勝地が多い北海道だけど不思議と沿線に景勝地が無く、樺太との往来を閉ざされた事もあ…

二つ目玉

北海道の夏は霧の季節でもある。霧の摩周湖などという歌ができるほど霧の日が多い。 海水が冷たい、沿岸地帯では晴天の日でも朝晩霧に悩まされる地域もある。自動車でも霧が出ると眼前が真っ白になって前進するのが怖いが、ダイヤで走る時分秒まで決められて…

釧網本線 北浜

蒸気機関車を追いかけて居ると、同好の士から自然と情報が集まって来る。インターネットなぞ無い時代だから、情報源は本や口コミである。 冬の北海道で写真を撮って居ると、何処で撮っても単調な背景になりがちなので、熱心な人達が捜して来たのが、流氷の海…

長万部

長万部は、昔お笑いタレントが妙なアクセントと下品な振りでネタにして有名になったけれど、観光客は殆ど居ない町だ。近傍に惹きつける観光地が無いからだ。しかし、鉄道で北海道を訪れる人は必ず通る駅でもある。 1928年に東室蘭で北海道炭礦が室蘭と岩見沢…

小樽築港

北海道の近代化は小樽から始まったと言える。江戸時代から北前船の基地で古来舞鶴との間に頻繁な往来があった事と豊富なニシン漁場がすぐ近くにあった事もあって、経済の中心地として発展した。やがて内陸地帯への開拓の為に、移動手段として交通網の整備が…

定山渓

北海道と言えば野趣溢れる温泉が各地にあって、有名所の別府や熱海などの温泉地とは全く違う魅力が溢れていた。お小遣いを貯めて蒸気機関車を撮りに遥々遠征していた貧乏学生には無縁だけれど、札幌の郊外に定山渓温泉があり道内で一山当てた成金や高給取り…

札幌駅

蒸気機関車を撮りに出掛けていた頃の札幌駅は地上駅だった。その当時には既に千歳線経由函館行が大勢を占めていて、小樽経由の列車は少なかった。 昔の国鉄は普通でも急行でも長距離の設定が多くて、函館発釧路行、網走行、稚内行が多数設定されていたが、千…