semai92117’s diary

想い出の記録 掲載写真の著作権を留保しますので無断転用はお断りです

昔のこと

呉線に残った大型蒸気機関車

関東人にとって大阪以西は現代の感覚より遥かに遠い地域だった。大阪迄だって夜行でたっぷり一晩掛かっていた時代。東京からは、九州方面行の列車は概ね午前中に発車して大阪は真夜中で岡山を過ぎた辺りでようやく朝を迎える。何より学生の特権の学割でも交…

米原 1968年

東海道線の米原駅は、北陸本線と東海道本線の分岐点だった。敦賀から青森へ達する裏日本縦貫線(現在はマスコミの言葉狩りで裏日本は禁止らしい)と、東海道の大動脈が分岐する交通の要衝であった。 現在は湖西線が出来て、大阪京都方面からは湖西経由で、東…

八王子機関区 1967年

八王子は鎌倉街道に象徴される古来からの交通の要衝地。明治以降は絹製品の集散地として繁栄したのも、その立地に由来したのだろう。周辺には多数の古戦場や城址が残り、歴史を今に伝えている。 人の往来に合わせて主要な街道沿いに鉄道は建設されたから、初…

七飯 1969年

七飯は函館から札幌へ向かう列車が遭遇する最初の試練の場所。海沿いの函館から高原地帯にある大沼に向かって広大な上り坂がある場所だ。鉄道でも車でも北海道の広大な風景を目の当たりにする所で、私はこの景色を見て北海道に来た事を実感する。 函館に向か…

総武本線1967年

総武線は東京から千葉で別れて東京湾沿いの内房方面や佐倉、銚子など、外房方面に達する多彩な列車が走る幹線で、当時は総武本線と呼称されていた。 また、中央線の中野駅を起点として御茶ノ水まで中央線と並走している通勤通学路線も両国から千葉までは一緒…

八高線 1967年

八高線は文字通り東京の八王子と群馬県高崎(倉賀野)を結ぶローカル線だが、首都圏を迂回して関東北部に連絡する物資輸送の幹線だった。また奥多摩から産出する石灰岩と製品としてのセメントを運ぶ路線でもあって、旅客より貨物列車が多い路線で、当時は頻…

東京都心の雪

先日東京で11月に積雪があった事が大きなニュースになっていた。たった2cm足らずの降雪に大騒ぎのTV局はともかく、都民の足である鉄道が混乱したのには呆れてしまった。 量が少ないとは言え、毎年数回は東京でも降雪が発生しているのだから、この程度の…

御茶ノ水

都内には数多くの鉄道駅があるが、御茶ノ水駅ほど変化に満ちた地形に建つ駅は珍しい。何しろ神田川の護岸の擁壁にへばりつくように作られ、対岸は水道橋方から秋葉原方に向けて急な下り坂になっていて、視界が開けている。更に地下鉄丸ノ内線が護岸を突き破…

列車愛称のこと

昭和30年代後半から40年代の頃は全国に数多くの愛称がついた列車が走っていた。特急は元より急行や準急には全て愛称がついていたし、季節の臨時列車にも付けられたものもあった。 一つは乗客の乗り間違い防止や列車の識別、指定券販売の為席を特定させる…

食堂車

新幹線網が拡大して鉄道の旅と言っても四時間乗ると言ったら、現代人の多数は飛行機で行けないかと考えるようになった。羽田と伊丹路線は今でも混雑していて三時間足らずでも空路を選ぶ人が多い事を物語っている。なにかと気ぜわしい時代になった。 1970年代…

三鷹 1966年

三鷹駅を通る中央線は、松本方面への列車と高尾(昔は浅川)までの通勤路線が同じ線路を走っていた。更に名古屋から多治見を経て松本へ至る路線も中央線だが、戦前のように中央線経由で新宿から名古屋行の列車は無く、全て松本、長野へのアクセスとなってい…

炭礦鉄道 2

既に消滅してしまった炭礦鉄道で撮った記録を残して置く事にする。 私が訪ねた当時は既に廃止や閉山が決まった所も多く、車両や設備は荒廃していたし、廃車になって倉庫に放置された機関車も多数あった。 その殆どが解体され鉄屑となって消えてしまっている…

炭礦鉄道

つい先日全く偶然にBS放送で1997年に放送された夕張地区の炭礦鉄道の跡地を巡って歴史を振り返る番組が再放送されたのを見かけた。 最晩年の宮脇俊三氏が出演されていて驚いた。 廃止され既に相当の年月が経ち付近の様子も変貌を遂げているが、往時の記…

蒸気機関士

現代では鉄道車両を運転する人は運転士と呼称しているが、私が撮り鉄してる時代には、機関車とディーゼル車を運転する人は機関士、電車は運転士と言っていた記憶がある。蒸気機関車は、走行を機関士が担当して、給炭をはじめとするその他一切を助手が担当し…

タブレット

今タブレットと言ったら、皆さん携帯型パソコンかスマホを連想するだろうが、私のような旧型テツオは、単線で列車の行き違いに必要な通行許可鍵を連想する。 原始的な保安システムで、単線の線路をある区間に分断して、その区間を通れる列車を、通行許可鍵を…

宗谷本線

宗谷本線は旭川から稚内まで約260キロを結ぶ路線で、戦前は日露戦争終結時のポーツマス講和で一部が日本領土となった樺太への航路の連絡口として重要な幹線だった。 景勝地が多い北海道だけど不思議と沿線に景勝地が無く、樺太との往来を閉ざされた事もあ…

二つ目玉

北海道の夏は霧の季節でもある。霧の摩周湖などという歌ができるほど霧の日が多い。 海水が冷たい、沿岸地帯では晴天の日でも朝晩霧に悩まされる地域もある。自動車でも霧が出ると眼前が真っ白になって前進するのが怖いが、ダイヤで走る時分秒まで決められて…

釧網本線 北浜

蒸気機関車を追いかけて居ると、同好の士から自然と情報が集まって来る。インターネットなぞ無い時代だから、情報源は本や口コミである。 冬の北海道で写真を撮って居ると、何処で撮っても単調な背景になりがちなので、熱心な人達が捜して来たのが、流氷の海…

長万部

長万部は、昔お笑いタレントが妙なアクセントと下品な振りでネタにして有名になったけれど、観光客は殆ど居ない町だ。近傍に惹きつける観光地が無いからだ。しかし、鉄道で北海道を訪れる人は必ず通る駅でもある。 1928年に東室蘭で北海道炭礦が室蘭と岩見沢…

小樽築港

北海道の近代化は小樽から始まったと言える。江戸時代から北前船の基地で古来舞鶴との間に頻繁な往来があった事と豊富なニシン漁場がすぐ近くにあった事もあって、経済の中心地として発展した。やがて内陸地帯への開拓の為に、移動手段として交通網の整備が…

定山渓

北海道と言えば野趣溢れる温泉が各地にあって、有名所の別府や熱海などの温泉地とは全く違う魅力が溢れていた。お小遣いを貯めて蒸気機関車を撮りに遥々遠征していた貧乏学生には無縁だけれど、札幌の郊外に定山渓温泉があり道内で一山当てた成金や高給取り…

札幌駅

蒸気機関車を撮りに出掛けていた頃の札幌駅は地上駅だった。その当時には既に千歳線経由函館行が大勢を占めていて、小樽経由の列車は少なかった。 昔の国鉄は普通でも急行でも長距離の設定が多くて、函館発釧路行、網走行、稚内行が多数設定されていたが、千…

旭川機関区

旭川と言えば札幌に次ぐ北海道第二の都市と言う枕詞がつく街だけれど、私の感覚では蒸気を撮りに出掛けた1970年代後半の当時の方が現代より遥かに活気に満ちていたように思う。北海道のほぼ真ん中に位置して、石北本線で北見、網走方面と名寄を経由して稚内…

北見機関区

機関区の片隅で、見たことの無い客車を見つけた。 種別を表す形式はマヤとなっていて、事業用である事が分かるが、窓配置から連想できる現役時代の車体と明らかに違う姿に、思わず写真を撮った。 帰った後で調べても詳細は判らずだった。しかも床下から蒸気…

機関区

蒸気機関車を求めて写真を撮りに出かけると、走行写真だけでは出会えなかった機関車に会いに最寄りの機関区を尋ねた。昼間は沿線で走行写真を撮り一段落すると機関区訪問と言う行程が定番だった為、午後の遅い時間や夜間と言う事も屡々だった。 電気機関車は…

世界初 寝台電車

寝ようとしても周りが騒がしいと眠れない人が多い。だから鉄道の寝台車と言えば客車と言うのが世界の標準だった。しかし客車列車は速度が遅い。せっかちな日本人は、何と世界初の寝台電車を作って大阪から九州方面の夜行列車に投入した。このせっかちが幸い…

上目名

上目名は函館本線の長万部から小樽方面へ5目の駅。数は5つでも距離は35キロもある山間の列車交換施設。狭隘な山間地に少しだけ開けた場所にある。 駅は本来は乗客が乗降する場所だけど、ここは上下列車の行き違いの為の場所だから、周りに人家は全く視界…

急行ニセコ

1967年頃蒸気機関車を撮りに出掛けた当時、急行ニセコは函館と札幌を函館本線経由で結ぶ急行列車だった。函館と札幌を結ぶルートは2つあって、長万部から倶知安、小樽を経由して札幌に至る函館本線経由と、洞爺、東室蘭、苫小牧、千歳を経由して札幌へ至る…

シロクニ

シロクニこと、C62型蒸気機関車は戦前軍需輸送優先で大量に製造された貨物用機関車を旅客輸送に適した機関車の不足を補う為にD52型機関車のボイラを転用して昭和23年に製造された。一般に車軸数が多ければ粘着力が増して牽引力が増加するが、速度は落ちる…

布原信号所 1968年

国鉄の動力近代化計画が進捗し、各地で電化工事やディーゼル化(無煙化)が進んで来た事で、蒸気機関車が消えるニュースが各地で報道された。それを契機として、各地でお別れイベント等が催され、SLというメディア造語が出来、それに釣られて俄撮り鉄も増え…