semai92117’s diary

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昔のこと

奥中山

花輪線の分岐駅好摩から東北本線を青森方へ進むと奥中山駅がある。ここは、東北本線の峠越えで輸送の大動脈。定期的に三重連の仕業がある、有名な場所だった。 ただ、運転時間帯と太陽の位置関係から撮影テクニックが必要な場所で、勉強不足の俄カメラマンの…

龍ケ森の三重連

蒸気機関車を撮る事に熱中していると、より迫力を感じる写真を求める事になって、単機より重連、重連より三重連と志向がエスカレートして行った。 全国各地で機関車の主力として蒸気機関車が活躍していたが、三重連での牽引を定期的に運行している場所は少な…

龍ヶ森

龍ヶ森は岩手県北部の好摩と秋田県の大館を結ぶ花輪線の信号所だが、駅前がスキー場なので側線に廃車となった旧型客車を置いて、簡易宿泊所として使われていた。私は勿論スキーでなくここを走るハチロクを撮る為に何度か宿泊した。周りにはスキー場だけで人…

準急はるな

1964年に東海道新幹線が走りだして、それまでの在来線の長距離急行が大幅に減少した。世界銀行から多額の借金をして作った新幹線に旅客を誘導する為の思い切った削減だった。運用から外れた余剰車両を使って、各地の観光地へ今風に言うとリゾート列車が走り…

混合列車

もう一つの鉄道列車の運転方法として、特に地方の閑散路線で人荷一体輸送として実施されていたのが、一本の列車に貨車と客車を連結して走る混合列車があった。 人を乗せる列車でついでに荷物を運ぶと言う発想でなく、貨物と旅客の両方を一本の列車で済ませて…

合造車

合造車は、異なる目的の車室を一両に組み込んだ車両の事。異等級、荷物、郵便、食堂車等々、様々な車両が作られて異彩を放っていたから、目立つ存在だった。 特に郵便と荷物と客室を設備した車両は、好物のひとつだったが、元々種類も数量も少ないから、巡り…

東京機関区

現代では、鉄道写真愛好家が増えた事もあって客寄せのイベントが各地で開催されたり、引退や復活と銘打って集客する事業が定着しているが、昔は全く無かった。鉄道好きは幼児体験として通過点では誰にでもあるが、中学生以上で趣味として定着する人は稀少な…

いすゞ・117クーペ

鉄道写真のネガに一コマだけ写っていた車が、いすゞ117クーペだった。 この頃は自家用車が普及しておらず珍しい時代で、当時学校敷地内の社宅?に住んでいた先生が我々生徒に中古のN360A(ホンダの軽自動車)を見せてくれたけれど、何せ中ぶるなので床から雨…

特急がっかり号 1960年

1960年12月日本初の特急専用ディーゼル車が東北線で走りだした。殆どの区間が非電化線で蒸気機関車が客車を牽引して走っていた特急はつかり号が気動車になり、時間が短縮されたばかりでなく、ばい煙で顔が黒くなる悩みも解消され、女性客には大変喜ばれた…

ビジネス特急こだま 1963年

新幹線が走りだす前、東京と大阪を結ぶ最速列車は、こだま号だった。片道6時間だけれど、しようと思えば日帰りが可能になった事は、一泊か夜行列車の往復が必須だった 事と較べて画期的だった。だから、単に特急ではなくてビジネス特急と呼ばれて大好評だっ…

羽幌駅 1967年

当時はぼろと言えば家庭用石炭や練炭の代名詞として、誰でも知っていた。因みに練炭と言うのは、石炭の粉を練った太い棒に幾つも通気用の穴を開けた燃料で七輪や専用の火鉢のような物に入れ暖房器代わりにもなった。長時間燃える代わりに一酸化炭素中毒 事故…

国鉄ヨンサントオ 1968年

学生時代に勃発した国鉄近代化事業で、全国で主力として活躍していた蒸気機関車を昭和43年10月までに全廃して、全国を無煙化する計画。 明治時代の鉄道開業以来、鉄道輸送の要として活躍した蒸気機関車が無くなると言う情報に、大きな衝撃を受けた。 私…

定期観光バス 1964年

この頃には、各地方都市で有名観光地を巡る観光バスがほぼ毎日運行されていた。 時刻表の巻末に定期観光バスだけを集めた独立した欄ができる程盛んだった。短い時間の物から、ほぼ終日7時間コースなどと言う物まで様々、観光地の特性に合ったコース作りで人…

中央線 1964年

戦後の世の中が落ち着いて、少しづつ日常生活を取り戻すのにつれて、通勤ラッシュが深刻化していた。子供が朝の電車に乗る事は本人の力だけでは到底不可能で、周りに親切な大人の人が居て助けてもらえなければ乗ることは勿論、降りる事も出来なかった。 特に…

青函連絡船 1963年

戦争で壊滅的打撃を受けた青函連絡船だったが、辛うじて生き残った老朽船の置き換えに待望の新造船が投入された。重厚な木造客室の格調は無くなったが、バウスラスターや揺れ防止装置を装備した最新鋭の船は美しくて快適だった。 進駐軍は、専用客車ごと船に…

日本橋 三越 1963年

この年であったか記憶が定かで無いけれど、鉄道写真に混じってこんなのが写っていたから、当時は話題を呼んだ物だったのだろう。 お中元やお歳暮はもとより、人様への贈り物やお父さんの背広などなど、当時のデパートは暮らしに密着していて、何かと言うとデ…

東京駅 1963年

当時は東京駅のホ-ムは15番線まで。外側機回し線と呼ぶ、機関車を回送して反対側に付ける為の線路があった。その外側は新幹線用のホームを建設中だった。 当時は工事現場の写真を撮るなぞ思いもよらぬ事だったが、今になって見ると折角その場に居ながら何…

東京駅 1963年

東海道新幹線が開業する直前の東京駅は大阪や九州方面行の特急や急行列車であふれていた。まだ真ん中に小と赤字で大書きされた切符だったが、親の写真機を借りて写真を撮りに行った。今で言う「撮り鉄」の第一歩は東京駅だった。 ホームに懐かしい唐草模様の…

昭島 1963年

この年、信越本線の横川と軽井沢間のアプト式線路での運用が廃止されて、新線が開通し汎用線路での粘着運転に切り替えられた。線路の間に歯車軌道を付けたアプト式は急坂の登り降りに適した方式だが速度が遅く、時間が掛かる事が問題だった。 廃止されたアプ…

東京オリンピック 1964年10月

敗戦後の日本にとって初めての檜舞台は東京五輪の成功だった。 世界各国の賛成を取り付ける外交力も貧弱な中で、戦前の移民政策で国を出た移民の人々が手弁当で誘致活動をして、支えてくれた。中でも最大規模であったブラジル移民の人々は南米や中米各国に入…

東海道新幹線 1964年10月1日

日本の鉄道史の中でも最大のイノベーション。 既存の線路幅とは違う規格の新線を作り旅客専用の高速鉄道が開業した。 東京大阪間を新たに用地買収して世界標準軌の線路を敷設し、全列車を中央制御 する画期的な運行システムが導入された。 子供のくせに、開…

櫻島 1964年3月

当時のフェリーは、小さかった。 島めぐりの観光バスガイドさんが、とても親切で優しかったけど、物凄く大柄な人だった事を覚えてる。それ以来、何となく鹿児島の女性は大柄と言う固定観念を持ってしまった。 昔、NHKTVで井上ひさし作の標準話し言葉を明治政…

長崎 1964年3月

憧れのブルートレインに乗って長崎へ・・・・・・の筈が道中や車内の事など全く記憶に残っていない。今になって すごく勿体ない事をしたものだと後悔している。 時間はたっぷりあった筈だから、中を探検したり途中の機関車などを観察、記録しておけば良かっ…

高松

宇高連絡が四国への入り口だった当時の玄関口高松駅。改めて見ると夏休みで旅行シーズン中なのに殆ど人が写ってない。この数年後以降に始まった高度成長期を経て皆豊かになったと言われているけれど、家事が電化され土日が休みになっても収入が増え生活が楽…

土佐山田

鉄道小荷物が廃止される前の地方駅には、殆ど貨車から荷降ろしする設備があった。宅配全盛の現代では想像つかないと思うけれど、当時は最寄りの駅止で荷物を送り、駅まで取りに行くのが普通だった。

淡路島

1964年夏に訪問した時は神戸港から船で2時間。洲本と福良間には電車が走っていた。残念ながら電車の写真は無い。玉ねぎ畑の中をのんびり47分掛かって走った。お昼に食べたハイ(ヤ)シライスのうまかった事を今でも覚えている。橋ができて橋脚代わり…

コニパンとネオパン

長い間大切に保管して来たネガフィルム。 忘れかけた若き頃の記憶を手繰る為に懸案だったスキャンをした。 押し入れの肥やしだった写真を、少しづつ出して想い出を改めて書いてみようと思った。 同じネガ専用アルバムに入れておいたのに、見苦しく劣化した物…

淡路交通