呉線に残った大型蒸気機関車
関東人にとって大阪以西は現代の感覚より遥かに遠い地域だった。大阪迄だって夜行でたっぷり一晩掛かっていた時代。東京からは、九州方面行の列車は概ね午前中に発車して大阪は真夜中で岡山を過ぎた辺りでようやく朝を迎える。何より学生の特権の学割でも交通費は嵩むし宿代も気がかりだったから、西方面へ写真を撮りに出かける機会は一度だけだったと記憶している。
そのたった一度の西遠征旅行では、米原、吹田、新見、糸崎、広島を訪ねた。
東海道と山陽の大幹線は既に電化され蒸気が活躍する場は限られていたが、それでも嘗て幹線を走る特急や急行列車の先頭に立った大型機関車が残っていたので、記録に留めようと出かけた。
マニアの間では既知の事だけれど、軌道は用途に応じた等級規格があって、負荷の多い幹線は特甲で以下甲、乙、丙に区分されていた。そして、この規格に応じて機関車の軸重制限があり、線路の規格で走行できる機関車が決められてしまう規定になっていた。
国鉄の無煙化計画の推進によって、各地で蒸気機関車が余剰となる事態が発生しても、軸重の重い幹線用大型機関車では軸重制限によって再利用ができない事態が多く発生して、まだ充分に使える大型機が数多く廃車される事態を何とか打開しようと、D52型やC59型は、従台車を交換してD62型、C60型に改造し低級路線で走れるようにした。
C62型も外見上の変化は無いが、軽量型に改造され常磐線や函館本線に転属したのだった。
当時の写真を見ると、こうした改造を受けて転出する直前の機関車の姿を偶然に捉えていて、なんとも言えない感慨を覚えた。
まだ改造を受ける前の重量型の逞しい活躍の姿を求めて呉線で活躍していたC59型やC62型を呉線と広島機関区で撮った想い出深い蒸気機関車写真を載せる事にした。
常磐線平へ転出する前の23号機 急行安芸
旅客列車を牽いたC59型はこの時期ではC60型に改造されずに廃車されてしまった
内田百閒が好んだ白砂青松瀬戸内の美しい景色を車窓から愛でる余裕は、貧乏学生の私には無かった。