semai92117’s diary

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青函連絡船

今年に入ってすぐの頃、ふとしたきっかけで東洋経済の「北海道新幹線4時間の壁を超えられるか」と言う記事を見かけた。

現在は函館郊外の新北斗なる駅まで暫定開業しているが、最終目的地は札幌で延伸工事が進められている。将来全線開業に向けて解決すべき課題を扱った記事を読んでみると、青函トンネルが主要な隘路になっている事が指摘されていた。

以前にも書いたように、終戦直後に起きた洞爺丸事故以来、青函トンネル北海道民

熱望によって実現し当初から新幹線を通す前提で作られている。

だから、今更何をと言う思いであったが、読んでみると思いの外解決が難しい課題を含んでいる事が分かった。

最も大きな問題は、在来規格の貨物列車と新幹線が共用で同じトンネルを走る事だ。

その為、風圧による脱線防止の為に在来線とほぼ同じ速度しか出せない事。そして、共用の為に補修整備の時間が確保しにくい事だ。いすれも安全運行に欠かせない問題を含んでいる為、困っていると言う。

解決の為の諸案の中で、最もコストが安い方策が貨物を海上航送に戻す事らしい。

何と廃止された貨物航送が復活する可能性があると言う事で薄れかけていた連絡船の想い出が蘇って来た。

国鉄は航送を止めたが、今でも青函フェリーは健在で便数も多いが、慢性的な運転手不足でトラック輸送は伸びず鉄道貨物への依存が大きいと言うから、新幹線の札幌延伸に合わせて航送が復活する可能性は、それなりにあるだろう。

赤字続きで安全運行に必須な路盤整備の費用にまで事欠くJR北海道では、お金が掛かる投資はしたくてもできないだろうが、堅実に実績を挙げているJR貨物なら実現出来るかもしれないなと勝手に妄想して、楽しんでいる。

飛行機との競争で少しでも短縮したい新幹線のおかげで貨物航送が復活したら、ついででも結構だから、人間も運んで欲しいと願う人は多分少なくないだろう。

フェリーターミナルは青森、函館ともに鉄道駅から離れていて、バス移動が伴い不便だからだ。今では激減した行商人達は、割引とは言え在来線当時より5割ほど高くなった新幹線運賃を払って往来するか、時間が掛かるフェリーしか手段が無いから、航送船に便乗出来るなら、きっとこちらを使うに違いない。

相次ぐ路線廃止のニュースしか聞こえて来ない北海道に、久しぶりに将来楽しみな話題が出てきた。果たして結末は如何に。

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摩周丸 標準50ミリに収まらない巨体。真正面から見ると太い

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旅客デッキ

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貨車甲鈑に貨物を押し込む 青森にて

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連絡船に接続する貨車用橋。 青森、函館共に2船が接岸して旅客も貨物も扱いが可能だった。

呉線に残った大型蒸気機関車

関東人にとって大阪以西は現代の感覚より遥かに遠い地域だった。大阪迄だって夜行でたっぷり一晩掛かっていた時代。東京からは、九州方面行の列車は概ね午前中に発車して大阪は真夜中で岡山を過ぎた辺りでようやく朝を迎える。何より学生の特権の学割でも交通費は嵩むし宿代も気がかりだったから、西方面へ写真を撮りに出かける機会は一度だけだったと記憶している。

そのたった一度の西遠征旅行では、米原、吹田、新見、糸崎、広島を訪ねた。

東海道と山陽の大幹線は既に電化され蒸気が活躍する場は限られていたが、それでも嘗て幹線を走る特急や急行列車の先頭に立った大型機関車が残っていたので、記録に留めようと出かけた。

マニアの間では既知の事だけれど、軌道は用途に応じた等級規格があって、負荷の多い幹線は特甲で以下甲、乙、丙に区分されていた。そして、この規格に応じて機関車の軸重制限があり、線路の規格で走行できる機関車が決められてしまう規定になっていた。

国鉄無煙化計画の推進によって、各地で蒸気機関車が余剰となる事態が発生しても、軸重の重い幹線用大型機関車では軸重制限によって再利用ができない事態が多く発生して、まだ充分に使える大型機が数多く廃車される事態を何とか打開しようと、D52型C59型は、従台車を交換してD62型、C60型に改造し低級路線で走れるようにした。

C62型も外見上の変化は無いが、軽量型に改造され常磐線函館本線に転属したのだった。

当時の写真を見ると、こうした改造を受けて転出する直前の機関車の姿を偶然に捉えていて、なんとも言えない感慨を覚えた。

まだ改造を受ける前の重量型の逞しい活躍の姿を求めて呉線で活躍していたC59型C62型呉線と広島機関区で撮った想い出深い蒸気機関車写真を載せる事にした。

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常磐線平へ転出する前の23号機 急行安芸

 

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旅客列車を牽いたC59型はこの時期ではC60型に改造されずに廃車されてしまった

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呉線小屋浦付近 C6241号機 

内田百閒が好んだ白砂青松瀬戸内の美しい景色を車窓から愛でる余裕は、貧乏学生の私には無かった。

 

 

米原 1968年

東海道線米原駅は、北陸本線東海道本線の分岐点だった。敦賀から青森へ達する裏日本縦貫線(現在はマスコミの言葉狩りで裏日本は禁止らしい)と、東海道の大動脈が分岐する交通の要衝であった。

現在は湖西線が出来て、大阪京都方面からは湖西経由で、東京、名古屋方面からは、北陸線経由に分かれて利用されているが、1968年当時は全列車が米原を経由した。

東海道も北陸も幹線だから電化されていたが、北陸線は交流電化で東海道は直流電化なので、北陸線米原の手前の田村駅付近に電源切替区間が設けられていた。

当時は大出力の電子機器は少なく、機関車に搭載できる交直切り替え設備は開発途上であった為に量産が追いつかず、北陸線へ入る列車は何と余剰の蒸気機関車で運転されていた。

電化されて久しく姿を消していた米原に、蒸気機関車が戻った椿事を幸いに、遥々東京から撮りに出かけた。

東京から関西方面へ向かう多数の夜行列車の多くは、米原で朝を迎える。

だから、米原駅のホームにあったタイル張りの洗面用流しや、信楽焼の器に入れられた駅売りのおそばは、私の好物であり、馴染み深いものだった。この器は、今でも我が家で大切に保存してる、私の宝物の一つだったりする。

米原撮り鉄以前からの、私の想い出に残る場所だ。

 

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長野から来たD51が旅客を牽引

 

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新造された交直両用型電車

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D50型は重連

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方転せず、戻りはバック運転でピストン輸送。 概ね40分以内に戻って来た。

 

八王子機関区 1967年

八王子は鎌倉街道に象徴される古来からの交通の要衝地。明治以降は絹製品の集散地として繁栄したのも、その立地に由来したのだろう。周辺には多数の古戦場や城址が残り、歴史を今に伝えている。

人の往来に合わせて主要な街道沿いに鉄道は建設されたから、初期に敷設された路線の殆どが街道をなぞっている。中央線は甲州街道に沿って塩尻に達し、鎌倉街道に沿って横浜線が敷かれている。江戸が都市として整備される以前のルートとして上州の中山道と連絡する八高線沿いのルートの価値は、現在の評価より遥かに重要視されていたのだろうと推測する。

中央線、横浜線八高線が集まる八王子は関東地区への物流の玄関口として、私が訪ねた頃には昼夜を問わず賑わっていた。

幹線の中央線は甲府までの急勾配区間は電化されていたが、東海道、山陽や東北等に優先投入されてはじき出された各種旧型電気機関車を見る事ができたし、横浜線の貨物を担当するC58型や八高線貨物担当のD51型も多数在籍していて、昭和初期製の各種機関車の博物館のようだった。

中央線の客車列車は当時多数走っていたが、牽引する電気機関車は貨物用に製造された為に暖房装置が無く、冬季には機関車の次位に暖房車を連結してもうもうと煙を吐きながら走っていた姿は滑稽だった。

生意気盛の年頃だから、ばい煙出して電気機関車走らせるなら、蒸気機関車の方がマシだ、などと話していたのを思い出す。

私が通った学校からも遠くないので、当時は「XXの鉄研です」と学生証を提示すると、何時でも構内に入れてくれた、想い出深い場所だ。

中でも、後日横浜線の蒸気運用が廃止された日には、機関車清掃とヘッドマーク飾り付けに参加してお別れ列車を見送った貴重な体験は、忘れる事ができない。

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転車台に乗るD51型

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横浜線のC58型

 

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中央線の貨物用旧型機関車

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こちらはピカピカの新車 EF64型

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こちらも新車のED61型

 

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煙を出す暖房車 中野駅

 

七飯 1969年

七飯は函館から札幌へ向かう列車が遭遇する最初の試練の場所。海沿いの函館から高原地帯にある大沼に向かって広大な上り坂がある場所だ。鉄道でも車でも北海道の広大な風景を目の当たりにする所で、私はこの景色を見て北海道に来た事を実感する。

函館に向かう車窓には、厳しい津軽海峡とは別世界のような穏やかな七飯浜が見えるが、この遠浅の海で強風に押し流された洞爺丸が横倒しになった惨事の現場でもある。

青函トンネルが出来る前の鉄道は、全て函館から連絡船で青森に渡る為に、広い北海道内の旅客も貨物も全部通過する場所に厳しい急坂が立ちはだかっている為、この地に新線を作って交通量を確保した。

藤城(代)新線と呼ばれて、急坂の続く区間だけ片側通行の複線にして混雑を軽減させた。勾配を緩和する為に、本線とは別ルートにした為に従来設置されていた駅を通らずに迂回した事が現代にも影響している。

待望の新幹線が函館まで通じたけれど、現在の終点の新函館北斗駅は、何とこの区間に作ってしまった為に、本当に一部だけの特例だが在来線の列車の中に新幹線の始発駅を通らない列車が存在する珍事が生まれている。

土地に余裕がある筈の北海道で、よりによって何故こんなややこしい場所に駅を作ったのか事情は不明だけれど、初めて訪れる観光客は新幹線の駅を通らぬ列車に間違えて乗ってしまったら、さぞかし驚くだろう。

坂が大の苦手な蒸気機関車にとっては、極めて有効な新線の完成で輸送量が飛躍的に拡大して物流に貢献した新線だが、将来電化され分散駆動が前提の電車が走ればお役御免になるのだろうと想像している。

交通量が多く、急坂のある場所は蒸気ファンには絶好の場所で煙を吹きあげて猛然とダッシュする機関車を目当てにでかけた想い出深い場所だ。

また、当時最強の機関車と言われたD52型が活躍する姿を頻繁に見れる場所でもあった。

 

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猛然とスタートするD52

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定数一杯の貨車を連ねて藤代新線へ

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旅客連車も全力で煙を吹き上げる

総武本線1967年

総武線は東京から千葉で別れて東京湾沿いの内房方面や佐倉、銚子など、外房方面に達する多彩な列車が走る幹線で、当時は総武本線と呼称されていた。

また、中央線の中野駅を起点として御茶ノ水まで中央線と並走している通勤通学路線も両国から千葉までは一緒なので、こちらは総武線と呼ばれていた。

本線の方は、館山や銚子方面に向かう列車で、一部を除いて両国が起点だった。

内房も外房も首都圏から近い格好の海水浴地なので、毎年夏には多数の臨時列車が運転されていた。

房総半島には、鉄道網が複雑に張り巡らされていたが千葉から先は全部非電化単線のローカル線で一部の優等列車以外はまだ蒸気機関車が牽引する客車列車が残っていた。

当時の資料を見てみると、佐倉機関区にC57型11輛、C58型21輛と86型5輛在籍し、都心に近い新小岩機関区には、C57型6輛、C58型7輛、D51型10輛が在籍して各路線を受け持っていた。

今はコンビナートがあってコンクリートと巨大な配管が視界を埋め尽くす内房の姉ヶ崎は、潮干狩りの有名地で地元では採れたあさりのむき身を串に刺し天日干ししてから、天ぷらにした産物を名物にしていたが、貝嫌いの私でも美味しく食べた記憶がある。

書いていて、そう言えば最近は影も形も見なくなったと思ったら、とたんに食べたくなって来た。目の前の海が浚渫され巨大なタンカーが出入りする海になってしまったから、串あさりも出来なくなってしまったのだろう。

1967年の夏の臨時列車運転も、そろそろ無煙化政策によって蒸気列車が廃止されるとの

噂を聞いて、両国から新小岩界隈で写真を撮った。鉄では「海水浴臨」と呼ばれた臨時列車は、車両こそ旧型だが快速で好評だった。

何故か快速なのに、かつて山陽道の花形特急だった「かもめ」の愛称まで付けられた特別な臨時列車が想い出に残っている。

 

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海水浴臨かもめ号8月11日新小岩付近

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最後尾に「かもめ」のテールマーク

 

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そろそろディーゼル車への置き換えが始まった新小岩機関区

 

八高線 1967年

八高線は文字通り東京の八王子と群馬県高崎(倉賀野)を結ぶローカル線だが、首都圏を迂回して関東北部に連絡する物資輸送の幹線だった。また奥多摩から産出する石灰岩と製品としてのセメントを運ぶ路線でもあって、旅客より貨物列車が多い路線で、当時は頻繁に蒸気機関車牽引の貨物が見られる事から東京人には貴重な場所だった。八王子を出てすぐ横田飛行場があり、拝島で青梅線五日市線と接続していて昭島にあった中島飛行機の工場にも連絡しているから、戦前には重要な軍需輸送も担っていただろう。

因みに八王子からは、相模原、橋本を経由して横浜へ続く横浜線が戦車などを製造していた相模原工廠があるから、文字通り軍需物資輸送の大動脈だったろうと想像する。

戦後は物資輸送の需要が首都圏への輸送に変わり、武蔵野線が整備されて八高線は首都圏に取り残された非電化路線だったが、東北新幹線の沿線住民対策で埼京線が開通した時に川越線も一体化され電化したので一気にベットタウン化したおかげで、徐々に川越と八王子間の開発が進み、つい最近になってようやく電化された。現在の八高線は川越を境に電化と非電化に分かれて直通列車は無くなってしまった。

北海道や東北に遠征するより大分近い八高線は、私にとって絶好の撮影練習の場所であったが、当時の写真を見ると変貌が大きすぎて現在では過去の面影を見つける事は不可能なのが残念。

たった半世紀?前に蒸気機関車が頻繁に走っていたなんて、誰も思わないだろう。

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1967年7月 まだ副灯が着く前の207号機

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大宮から来た川越線の96 1967年7月

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腕木信号機が林立していた川越駅 1967年7月

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現在からは想像できない高麗川駅 1967年7月 広場は砂利敷き未舗装だった

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廃止の噂で川越線始発の蒸気旅客列車を撮ったが光量不足で失敗。1967年11月川越