semai92117’s diary

想い出の記録 掲載写真の著作権を留保しますので無断転用はお断りです

お詫び

いつの間にか気づいたら 自分が意図した場所での段落取りが反映されずに機械的に改行されて 不適切な場所での改行やら段落表示になって 大変お見苦しい状態になっている。気づいて何度も編集を試みたが上手く行かず 結局諦めて読みにくいのを放置したまま記事を挙げている。どうも句読点や改行を許可する場所と無視する場所があるらしいので 敢えてベタ打ちして試してみる。

以前も改行すると数行改行されたりして変だななと感じていたが どうも見たまま入力では問題があるらしい。わざわざ見に来て下さる方には誠に申し訳無い次第で お詫び申し上げる次第です。

ベタ打ち法で直れば良いけれど 駄目なら私のスキルでは改善の見込みは今の所無く不規則でだらしない段落の姿で続けるしか道はありませんが 悪い事を承知で恥を晒すのは気が重いです。

句点の代わりにスペースを入れて さて うまく行く事を願って公開するボタンを押してみる。

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沼津に保存されている最強の機関車 D52型 復活して力強いドラフトをもう一度聞いてみたい

お一人様

母を送ってから、家族が気ままに過ごす日常を大切にしようと思い立った。

定年退職後に家事代行見習いとして訓練を受けて少しだけ分担できるようにして、思い思いの気ままな生活をしても負担にならぬようになって、安心して余暇を楽しむ環境ができた。

そんな事で毎年、気楽な一人旅を楽しんでいる。

家族連れの時は車が便利で旅費も安く出来る為に必ず車だったが一人では高くつく。

しかし当然行った先の足が無い。可能な限りバスを使う算段を試みるが日に数本のバスを効率よく使う事は不可能で結局は自転車なり徒歩。自分の動力を使って移動するしか手段はない。

政府は外国人観光客を増やすと言うけれど、殆どの地方都市の公共交通機関は一時間に一本程度のバスや電車があるのが稀な状態だ。

有名な温泉場や観光地へのアクセスは確保されてるが、行った先での見学をしようにも

世界的に見て高額なタクシーしか手段が無い現状では、その土地の文化に触れる旅など

思いもよらないだろう。

地方では一人一台の車社会だが広大な米国のような土地柄は別として日本の地方都市程度の狭い範囲をおもちゃのような軽自動車が走り回る現状には違和感を覚える。

高齢ドライバーの事故も社会問題になっている現代では何か全く別の安全な移動手段

を考える時期に来ていると感じている。

今年は、幼稚園の頃に何度か行った事がある諏訪方面へ出かけた。

諏訪湖に面して、上諏訪・下諏訪・岡谷と3つの駅があるが、不思議な事に3駅ともに目玉の諏訪湖側に駅の出入り口が無い事に気づいた。

諏訪湖畔は盆地の底にあって、茅野方面にだけ開けた地形だから湖を渡って冷たい風が

吹き込むのを防ぐ為に背を向けたのか、御神渡りで神様がお渡りになるのを目にすると、目が潰れるからなのか、訳は分からぬがとにかく湖畔側には迂回しなくては行けない。

今回の目的は、この地区に保存されている3台の蒸気機関車を見に行く事だが、結局

時間の都合で3町村共同で運営している「スワンバス」には乗れず歩いて見に行った。初日の歩数は28000歩強で、夜になって宿のベッドで足がつって、七転八倒した。

古事記の伝承で、原住神が外来神によって幽閉された諏訪大社は本社、秋宮、冬宮と

3宮あるけれど、秋宮しかお参りできなかった。

お一人様でも現代の日本では車が無いと思うように見て回る事が不可能だと改めて思い知らされた旅だった。

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北海道で活躍したD51349が何故か岡谷に居る。

ギースルエジェクタと言う排煙装置をつけた希少な保存機。前後に長い楕円形の煙突が特徴

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こちらは C12171号機 綺麗に保存されている。下諏訪町役場の隣の公園で

 

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D51824号機 は長野で活躍した正真正銘ゆかりの機関車だが補修整備中で御簾の中だった。特徴の長野工場式集煙装置だけ外されて転がっていた。 上諏訪にて

 

世代交代

記事更新が長い間滞ってしまったが、この間サポート切れのOSと決別すべく、悪戦苦闘していた。家族の分も含め自作で通していたけれど、XP終了後は技術革新が進み、部分的な更新が不可能となり、製品購入の方が自作より安い状況に変化してしまっていた。最後まで頑張った自分用もついに自作を諦めてBTO完成品を購入して、大量の使えるけれど型落ちパーツが手元に溢れているのが現状。世の流れに棹さしてもエコにもならず不経済なだけと言う詰らない結末になってしまったが、ようやく我がPCも現代仕様になり、世代交代が完了した。

 

たった一人の横綱の大記録を大騒ぎで伝えて場所中なのに花束贈呈までして、伝統の武士道精神をないがしろにする大相撲でも若い実力者が顔を揃えて世代交代が進んでいるように見える。勝敗への拘りだけでなく心の修養も大切にして欲しいと願う。

戦後のベビーブームは、長い戦争が終わり家系存続への強い願いが生み出した異常現象だったが、団塊世代の引退が続き、突如出現した特定年齢者が突出して多いと言う人口統計上の歪みも収束に向かいつつある。

私は、この異変の中に居る世代だから、人口の歪みがもたらす社会的不具合の影響をずっと受け続けて来たが、これから成人して社会を担う若者達は、緩やかな人口変動の中で安定した社会が実現できるだろうと、期待する。

総人口が一億人割れとなり、社会が崩壊すると騒ぐ人たちが居るが、団塊世代の方が異常なだけで、異常値を抜いて見れば直ぐに分かる事。妄言に騙されないで、新しい日本をしっかり見据えた社会作りに頑張って欲しいと願っている。

 

このブログは、私の学生時代に偶々遭遇した国鉄の動力近代化計画によって、主力で活躍していた蒸気機関車が全廃されると言う事で必死に撮り続けた写真を当時の記憶とともに記録に残す事が目的だけれど、蒸気を置き換える為に新造された当時新鋭の車両たちが、近年になって徐々に姿を消しつつある。

年を重ねれば当たり前の事だけれど、個人的には何だかなぁと言う気持ちだ。

職業的には現役引退だけれど、社会的にはもう少しだけ一員として居させて貰いたい

のだが、何時まで許されるかな。

 

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蒸気の天敵 DD51型機関車 吹田にて

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小型蒸気の天敵 DE10型 新車整備中 八王子にて

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客車列車の天敵 キハ28・58型気動車 区界にて

 

今では既に引退してしまった車両も、当時は最新鋭の世代交代の騎手だった

 

 

 

青函連絡船

今年に入ってすぐの頃、ふとしたきっかけで東洋経済の「北海道新幹線4時間の壁を超えられるか」と言う記事を見かけた。

現在は函館郊外の新北斗なる駅まで暫定開業しているが、最終目的地は札幌で延伸工事が進められている。将来全線開業に向けて解決すべき課題を扱った記事を読んでみると、青函トンネルが主要な隘路になっている事が指摘されていた。

以前にも書いたように、終戦直後に起きた洞爺丸事故以来、青函トンネル北海道民

熱望によって実現し当初から新幹線を通す前提で作られている。

だから、今更何をと言う思いであったが、読んでみると思いの外解決が難しい課題を含んでいる事が分かった。

最も大きな問題は、在来規格の貨物列車と新幹線が共用で同じトンネルを走る事だ。

その為、風圧による脱線防止の為に在来線とほぼ同じ速度しか出せない事。そして、共用の為に補修整備の時間が確保しにくい事だ。いすれも安全運行に欠かせない問題を含んでいる為、困っていると言う。

解決の為の諸案の中で、最もコストが安い方策が貨物を海上航送に戻す事らしい。

何と廃止された貨物航送が復活する可能性があると言う事で薄れかけていた連絡船の想い出が蘇って来た。

国鉄は航送を止めたが、今でも青函フェリーは健在で便数も多いが、慢性的な運転手不足でトラック輸送は伸びず鉄道貨物への依存が大きいと言うから、新幹線の札幌延伸に合わせて航送が復活する可能性は、それなりにあるだろう。

赤字続きで安全運行に必須な路盤整備の費用にまで事欠くJR北海道では、お金が掛かる投資はしたくてもできないだろうが、堅実に実績を挙げているJR貨物なら実現出来るかもしれないなと勝手に妄想して、楽しんでいる。

飛行機との競争で少しでも短縮したい新幹線のおかげで貨物航送が復活したら、ついででも結構だから、人間も運んで欲しいと願う人は多分少なくないだろう。

フェリーターミナルは青森、函館ともに鉄道駅から離れていて、バス移動が伴い不便だからだ。今では激減した行商人達は、割引とは言え在来線当時より5割ほど高くなった新幹線運賃を払って往来するか、時間が掛かるフェリーしか手段が無いから、航送船に便乗出来るなら、きっとこちらを使うに違いない。

相次ぐ路線廃止のニュースしか聞こえて来ない北海道に、久しぶりに将来楽しみな話題が出てきた。果たして結末は如何に。

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摩周丸 標準50ミリに収まらない巨体。真正面から見ると太い

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旅客デッキ

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貨車甲鈑に貨物を押し込む 青森にて

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連絡船に接続する貨車用橋。 青森、函館共に2船が接岸して旅客も貨物も扱いが可能だった。

呉線に残った大型蒸気機関車

関東人にとって大阪以西は現代の感覚より遥かに遠い地域だった。大阪迄だって夜行でたっぷり一晩掛かっていた時代。東京からは、九州方面行の列車は概ね午前中に発車して大阪は真夜中で岡山を過ぎた辺りでようやく朝を迎える。何より学生の特権の学割でも交通費は嵩むし宿代も気がかりだったから、西方面へ写真を撮りに出かける機会は一度だけだったと記憶している。

そのたった一度の西遠征旅行では、米原、吹田、新見、糸崎、広島を訪ねた。

東海道と山陽の大幹線は既に電化され蒸気が活躍する場は限られていたが、それでも嘗て幹線を走る特急や急行列車の先頭に立った大型機関車が残っていたので、記録に留めようと出かけた。

マニアの間では既知の事だけれど、軌道は用途に応じた等級規格があって、負荷の多い幹線は特甲で以下甲、乙、丙に区分されていた。そして、この規格に応じて機関車の軸重制限があり、線路の規格で走行できる機関車が決められてしまう規定になっていた。

国鉄無煙化計画の推進によって、各地で蒸気機関車が余剰となる事態が発生しても、軸重の重い幹線用大型機関車では軸重制限によって再利用ができない事態が多く発生して、まだ充分に使える大型機が数多く廃車される事態を何とか打開しようと、D52型C59型は、従台車を交換してD62型、C60型に改造し低級路線で走れるようにした。

C62型も外見上の変化は無いが、軽量型に改造され常磐線函館本線に転属したのだった。

当時の写真を見ると、こうした改造を受けて転出する直前の機関車の姿を偶然に捉えていて、なんとも言えない感慨を覚えた。

まだ改造を受ける前の重量型の逞しい活躍の姿を求めて呉線で活躍していたC59型C62型呉線と広島機関区で撮った想い出深い蒸気機関車写真を載せる事にした。

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常磐線平へ転出する前の23号機 急行安芸

 

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旅客列車を牽いたC59型はこの時期ではC60型に改造されずに廃車されてしまった

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呉線小屋浦付近 C6241号機 

内田百閒が好んだ白砂青松瀬戸内の美しい景色を車窓から愛でる余裕は、貧乏学生の私には無かった。

 

 

米原 1968年

東海道線米原駅は、北陸本線東海道本線の分岐点だった。敦賀から青森へ達する裏日本縦貫線(現在はマスコミの言葉狩りで裏日本は禁止らしい)と、東海道の大動脈が分岐する交通の要衝であった。

現在は湖西線が出来て、大阪京都方面からは湖西経由で、東京、名古屋方面からは、北陸線経由に分かれて利用されているが、1968年当時は全列車が米原を経由した。

東海道も北陸も幹線だから電化されていたが、北陸線は交流電化で東海道は直流電化なので、北陸線米原の手前の田村駅付近に電源切替区間が設けられていた。

当時は大出力の電子機器は少なく、機関車に搭載できる交直切り替え設備は開発途上であった為に量産が追いつかず、北陸線へ入る列車は何と余剰の蒸気機関車で運転されていた。

電化されて久しく姿を消していた米原に、蒸気機関車が戻った椿事を幸いに、遥々東京から撮りに出かけた。

東京から関西方面へ向かう多数の夜行列車の多くは、米原で朝を迎える。

だから、米原駅のホームにあったタイル張りの洗面用流しや、信楽焼の器に入れられた駅売りのおそばは、私の好物であり、馴染み深いものだった。この器は、今でも我が家で大切に保存してる、私の宝物の一つだったりする。

米原撮り鉄以前からの、私の想い出に残る場所だ。

 

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長野から来たD51が旅客を牽引

 

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新造された交直両用型電車

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D50型は重連

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方転せず、戻りはバック運転でピストン輸送。 概ね40分以内に戻って来た。

 

八王子機関区 1967年

八王子は鎌倉街道に象徴される古来からの交通の要衝地。明治以降は絹製品の集散地として繁栄したのも、その立地に由来したのだろう。周辺には多数の古戦場や城址が残り、歴史を今に伝えている。

人の往来に合わせて主要な街道沿いに鉄道は建設されたから、初期に敷設された路線の殆どが街道をなぞっている。中央線は甲州街道に沿って塩尻に達し、鎌倉街道に沿って横浜線が敷かれている。江戸が都市として整備される以前のルートとして上州の中山道と連絡する八高線沿いのルートの価値は、現在の評価より遥かに重要視されていたのだろうと推測する。

中央線、横浜線八高線が集まる八王子は関東地区への物流の玄関口として、私が訪ねた頃には昼夜を問わず賑わっていた。

幹線の中央線は甲府までの急勾配区間は電化されていたが、東海道、山陽や東北等に優先投入されてはじき出された各種旧型電気機関車を見る事ができたし、横浜線の貨物を担当するC58型や八高線貨物担当のD51型も多数在籍していて、昭和初期製の各種機関車の博物館のようだった。

中央線の客車列車は当時多数走っていたが、牽引する電気機関車は貨物用に製造された為に暖房装置が無く、冬季には機関車の次位に暖房車を連結してもうもうと煙を吐きながら走っていた姿は滑稽だった。

生意気盛の年頃だから、ばい煙出して電気機関車走らせるなら、蒸気機関車の方がマシだ、などと話していたのを思い出す。

私が通った学校からも遠くないので、当時は「XXの鉄研です」と学生証を提示すると、何時でも構内に入れてくれた、想い出深い場所だ。

中でも、後日横浜線の蒸気運用が廃止された日には、機関車清掃とヘッドマーク飾り付けに参加してお別れ列車を見送った貴重な体験は、忘れる事ができない。

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転車台に乗るD51型

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横浜線のC58型

 

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中央線の貨物用旧型機関車

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こちらはピカピカの新車 EF64型

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こちらも新車のED61型

 

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煙を出す暖房車 中野駅