semai92117’s diary

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2016-08-01から1ヶ月間の記事一覧

世界初 寝台電車

寝ようとしても周りが騒がしいと眠れない人が多い。だから鉄道の寝台車と言えば客車と言うのが世界の標準だった。しかし客車列車は速度が遅い。せっかちな日本人は、何と世界初の寝台電車を作って大阪から九州方面の夜行列車に投入した。このせっかちが幸い…

上目名

上目名は函館本線の長万部から小樽方面へ5目の駅。数は5つでも距離は35キロもある山間の列車交換施設。狭隘な山間地に少しだけ開けた場所にある。 駅は本来は乗客が乗降する場所だけど、ここは上下列車の行き違いの為の場所だから、周りに人家は全く視界…

急行ニセコ

1967年頃蒸気機関車を撮りに出掛けた当時、急行ニセコは函館と札幌を函館本線経由で結ぶ急行列車だった。函館と札幌を結ぶルートは2つあって、長万部から倶知安、小樽を経由して札幌に至る函館本線経由と、洞爺、東室蘭、苫小牧、千歳を経由して札幌へ至る…

シロクニ

シロクニこと、C62型蒸気機関車は戦前軍需輸送優先で大量に製造された貨物用機関車を旅客輸送に適した機関車の不足を補う為にD52型機関車のボイラを転用して昭和23年に製造された。一般に車軸数が多ければ粘着力が増して牽引力が増加するが、速度は落ちる…

布原信号所 1968年

国鉄の動力近代化計画が進捗し、各地で電化工事やディーゼル化(無煙化)が進んで来た事で、蒸気機関車が消えるニュースが各地で報道された。それを契機として、各地でお別れイベント等が催され、SLというメディア造語が出来、それに釣られて俄撮り鉄も増え…

奥中山

花輪線の分岐駅好摩から東北本線を青森方へ進むと奥中山駅がある。ここは、東北本線の峠越えで輸送の大動脈。定期的に三重連の仕業がある、有名な場所だった。 ただ、運転時間帯と太陽の位置関係から撮影テクニックが必要な場所で、勉強不足の俄カメラマンの…

龍ケ森の三重連

蒸気機関車を撮る事に熱中していると、より迫力を感じる写真を求める事になって、単機より重連、重連より三重連と志向がエスカレートして行った。 全国各地で機関車の主力として蒸気機関車が活躍していたが、三重連での牽引を定期的に運行している場所は少な…

時刻表昭和史

毎年この時期になるとTVで原爆と戦没者の事が取り上げられ、例年同じような報道が繰り返されている。 私は宮脇俊三氏が昭和20年8月15日に実地で体験した事が綴られている時刻表昭和史を思い出す。戦争末期には各地方都市に対しても爆撃や銃撃が頻繁に繰…

龍ヶ森

龍ヶ森は岩手県北部の好摩と秋田県の大館を結ぶ花輪線の信号所だが、駅前がスキー場なので側線に廃車となった旧型客車を置いて、簡易宿泊所として使われていた。私は勿論スキーでなくここを走るハチロクを撮る為に何度か宿泊した。周りにはスキー場だけで人…

準急はるな

1964年に東海道新幹線が走りだして、それまでの在来線の長距離急行が大幅に減少した。世界銀行から多額の借金をして作った新幹線に旅客を誘導する為の思い切った削減だった。運用から外れた余剰車両を使って、各地の観光地へ今風に言うとリゾート列車が走り…

混合列車

もう一つの鉄道列車の運転方法として、特に地方の閑散路線で人荷一体輸送として実施されていたのが、一本の列車に貨車と客車を連結して走る混合列車があった。 人を乗せる列車でついでに荷物を運ぶと言う発想でなく、貨物と旅客の両方を一本の列車で済ませて…

合造車

合造車は、異なる目的の車室を一両に組み込んだ車両の事。異等級、荷物、郵便、食堂車等々、様々な車両が作られて異彩を放っていたから、目立つ存在だった。 特に郵便と荷物と客室を設備した車両は、好物のひとつだったが、元々種類も数量も少ないから、巡り…

東京機関区

現代では、鉄道写真愛好家が増えた事もあって客寄せのイベントが各地で開催されたり、引退や復活と銘打って集客する事業が定着しているが、昔は全く無かった。鉄道好きは幼児体験として通過点では誰にでもあるが、中学生以上で趣味として定着する人は稀少な…

いすゞ・117クーペ

鉄道写真のネガに一コマだけ写っていた車が、いすゞ117クーペだった。 この頃は自家用車が普及しておらず珍しい時代で、当時学校敷地内の社宅?に住んでいた先生が我々生徒に中古のN360A(ホンダの軽自動車)を見せてくれたけれど、何せ中ぶるなので床から雨…

特急がっかり号 1960年

1960年12月日本初の特急専用ディーゼル車が東北線で走りだした。殆どの区間が非電化線で蒸気機関車が客車を牽引して走っていた特急はつかり号が気動車になり、時間が短縮されたばかりでなく、ばい煙で顔が黒くなる悩みも解消され、女性客には大変喜ばれた…

元祖 乗り鉄 内田百閒

「阿房列車」に初めて巡り合ったのは、もう50年程昔の事。以来何度も何度も繰り返して、今でも読んでいて全く飽きない。殆どの記述を覚えてしまっているのだが、読む度に新鮮な気持ちがして、新たな発見もある。 著者内田百閒氏が随筆の天才と異名を取る所…