semai92117’s diary

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混合列車

もう一つの鉄道列車の運転方法として、特に地方の閑散路線で人荷一体輸送として実施されていたのが、一本の列車に貨車と客車を連結して走る混合列車があった。

人を乗せる列車でついでに荷物を運ぶと言う発想でなく、貨物と旅客の両方を一本の列車で済ませてしまうと言う究極のコスト削減と言えば聞こえは良いが、人荷の区別なく最小限の手間で両方運んでしまおうと言う事だから、事と次第によっては大変な事になる。私は経験した事無いけれど、貨物の積み込みや、荷降ろしから、果ては貨車の解結作業まで付き合わされる可能性があるから、ひと駅一分停車の各駅停車とは訳が違う。

因みに都会の電車の通常の停車時間は概ね20秒以内らしいから、比較するととんでもない時間を浪費して進む事になる。

それでも、一日に数本しか走らない列車だから、やむを得ない。冬場で道路が積雪したり不通にでもなれば、正に命綱の列車だから、皆我慢して乗る。

写真の当時は、まだ林業や炭鉱などで、現代より遥かに多くの人口が地方に住んでいたのだが、それでも、地域によっては人の流動が少なく輸送需要が少なかったのだろう。

それから60年近く、現代では無数の限界集落が各地に発生して、人に代わって猪や鹿の棲家になる地域が広がりつつある。

産業が無く仕事が無ければ、職を求めて人は移動するのは当然だが、嘗て多くの人が住み、地域の文化が育った地域までが消滅して都会に集中する事は、日本にとって決して好ましい事では無い。これは、はっきり言える事だが解決するには、政治の力が必要。政治家の腕の見せどころだ。政府が悪いだの何だのと文句言うのでは無く、党派を越えて自分の出身地を皆で協力して活力ある地域にする努力をして欲しい。

自分の発祥の地を消滅させたら、万が一将来首相に出世した時に恥ずかしい思いをするだろう。票が集まる東京ばかり見てないで、両親が働き産んでくれた地に恩返しする為に本気で努力してもらいたいと願う。

 

石北本線 常紋にて

大動脈の本線でも混合列車が走った。

 

合造車

合造車は、異なる目的の車室を一両に組み込んだ車両の事。異等級、荷物、郵便、食堂車等々、様々な車両が作られて異彩を放っていたから、目立つ存在だった。

特に郵便と荷物と客室を設備した車両は、好物のひとつだったが、元々種類も数量も少ないから、巡りあう事も珍しかった。

昔の駅の売店は、殆どが鉄道弘済会売店で、各駅の売店への新聞や物資の輸送などにも活躍していた。お客も荷物の一種には違いないけど、物と人を同じ車両で運ぶと言う発想も、結構図太い神経だとは、思う。

但し、何でも昔より現代が進化してるか、と言うと実は違っていて、荷物合造車が鉄道小荷物取り扱い廃止とともに新造されず廃車になってしまったが、各駅への物資輸送の需要は、実は現代でも残っていて、やむを得ず、一般車両の先頭(最後尾)の一部を何とカーテンで仕切った簡易荷物室を設置して輸送している。

荷物輸送が無い時には、カーテンを外して客室として人を乗せる訳だから、昔の合造車の方が、旅客にとっては遥かに優遇されていた事になる。皮肉なものだ。

昔を知る現場の職員は複雑な心境だろう。

 

キハユニ15 1965年水戸にて

東京機関区

現代では、鉄道写真愛好家が増えた事もあって客寄せのイベントが各地で開催されたり、引退や復活と銘打って集客する事業が定着しているが、昔は全く無かった。鉄道好きは幼児体験として通過点では誰にでもあるが、中学生以上で趣味として定着する人は稀少な部類だったと思う。その為かどうか、学生証を提示して鉄研ですと申告すると、殆どの現場では付き添いも無しで入れてくれた。勿論頻繁に列車が通る本線には絶対近づくな、線路はできるだけ横断するな。横断時は指差し確認で安全確認を遵守せよと、厳しく指導は受けたが。自由な分子供心にも好意で入れてくれた人に迷惑は絶対掛けないと注意し緊張したのは、当然の事だ。

最近では、列車妨害や沿線住民の私有地を荒らしたりと犯罪まがいの迷惑行為で、社会から顰蹙を買う事件が度々発生して、自分は行ってもないけど、身が縮む思いがして、益々混雑するイベントを忌避する気持ちが強くなってしまう。

15年ほど前、仕事帰りの酒場で子持ちの若い同僚と飲んだ時に、偶々異口同音に「自分が未熟なので子供を躾ける資格が無い」と嘆いているのを聞いて、びっくりした。

子供は親が教えてあげないとどうして良いか分からない。ありのままの姿で、自分が思う通り、相方と相談しながら、生活の中で話してあげたら、それで良いのだよ。と言ったけれど、心の中では不安な気持ちで一杯になった。

良くも悪くも子は親しか見れない。その子に構えて教えなくても子は見てる。だからこそ、親になったら子に見られてると言う自覚で日々生活するのだ。と言ってしまったら、益々子供を作る事を避けたり、怖がったりするのだろう。でも、それが現実。

歳を重ねて、やっと親の行動や言動がふとしたきっかけで納得できたりするけれど、

そんな事若い人達に言ってみても、「そんなものか」で終わってしまうだろう。

だから、親は自分の思う通り子供に何でも教えて上げなくてはならない。

子供は自分の目で見て、そして自分で判断してる。反抗期には、親の事を全部否定する。そして、自分なりの考えで成長すると思う。間違った方向であってもだ。

だから、たとえ押し付けであっても、子供に、自分の思う通りの事を教えておくべきだと思う。それが躾だろう。最低でも良い事と悪い事、人に迷惑かけない。決まりは護る。程度までは親の責任だと思うのだが、若い人達はどう考えてるのだろう。

 

1965年頃の東京機関区。

山手線に久しぶりで出来る予定の新駅は、この跡地らしい。機関車が牽引する客車列車がほぼ絶滅して、こんな光景は無くなってしまった。

いすゞ・117クーペ

鉄道写真のネガに一コマだけ写っていた車が、いすゞ117クーペだった。

この頃は自家用車が普及しておらず珍しい時代で、当時学校敷地内の社宅?に住んでいた先生が我々生徒に中古のN360A(ホンダの軽自動車)を見せてくれたけれど、何せ中ぶるなので床から雨漏りし雨中を走ると跳ね上げた水が室内に侵入する代物だったので、笑い者にした記憶がある。(勿論妬みと羨ましさが大半)

そんな頃に忽然と姿を表したのがいすゞ117クーペ。クーペは既に死語だがスポーツカーの代名詞だった。今改めて眺めても、60年前のデザインとは思えない美しさ、というか優美な姿だと思う。

全く同じデザインの車体に現代のメカニズムを搭載した車を売り出したら、間違いなく売れるだろうと思うけど、どうだろう。

特に最近各社のデザインが何故か酷似していて、ぱっと見てもどこのメーカーか判然としないだけでなく、何となく歯をむき出しにして走ってるような面相がとても品の無い

顔立ちと感じてしまう。

憧れの時代、大衆化時代を経て車が売れない時代、車を所有したがらない時代へと移り変わって、この先の変化の方向性が見出しにくいが、無くなる事は無いだろう。

美しいと言うコンセプトもアリではないかな。

 

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特急がっかり号 1960年

1960年12月日本初の特急専用ディーゼル車が東北線で走りだした。殆どの区間が非電化線で蒸気機関車が客車を牽引して走っていた特急はつかり号が気動車になり、時間が短縮されたばかりでなく、ばい煙で顔が黒くなる悩みも解消され、女性客には大変喜ばれた。

何故がっかり号なのか。実家が東北の先生が、「少しでも早く両親の顔が見たいと、早くから並んで、やっと手に入れた切符で乗車したら、故障で大幅に遅れる事態が頻発した為、沿線住民の間で、がっかり号と呼ばれているのを記者が聞きつけて、記事のタイトルにした事が発端だ」と教えてくれた。

初物の機械には初期故障がつきもので、その後はトラブルも無く快調に走り、奥羽線羽越線常磐線と東北地区で活躍した後紀勢線で使われ引退した。

その縁で、今は京都に移転した大阪交通科学館に特徴ある先頭車が長らく展示されていた。国鉄は初期故障がよほど堪えたのか、量産されず、後継型が大量生産され、全国の非電化区間を走る特急気動車の標準として、地方幹線特急の代表的存在となった。

 

元祖 乗り鉄 内田百閒

阿房列車」に初めて巡り合ったのは、もう50年程昔の事。以来何度も何度も繰り返して、今でも読んでいて全く飽きない。殆どの記述を覚えてしまっているのだが、読む度に新鮮な気持ちがして、新たな発見もある。

著者内田百閒氏が随筆の天才と異名を取る所以であろうと思う。

つい先日起こった熊本大震災の災禍に接して、氏の「雷九州阿房列車」を改めて読んでみた。最近では天気予報などで気軽?に「50年に一度あるか無いか」と言われるほど異常気象現象が頻発するが、昭和20年代当時で60何年来と言う梅雨時特有の集中豪雨の真っ只中を旅する事になった紀行文には、熊本特有の火山灰土の事や白川の大氾濫が記録されていて、この地方の防災対策の留意事項が垣間見える。

他方で、高速化され移動手段でしか無くなった鉄道旅で既に失われた食堂車の楽しみや車中泊の事、終戦直後の社会の様子など、私が生まれる直前の情勢が分る本としても、興味は尽きなかった。

用事もないのに、借金をして大阪まで1等の特急で出掛けて、帰りは帰宅する用事があるから、3等で我慢して帰ってくる。と言う発想のユニークさ。当初は随筆のネタとしてでは無く、純粋に鉄旅を楽しみたいと言う思いが伝わり共感を覚える。3刊ある。

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ビジネス特急こだま 1963年

新幹線が走りだす前、東京と大阪を結ぶ最速列車は、こだま号だった。片道6時間だけれど、しようと思えば日帰りが可能になった事は、一泊か夜行列車の往復が必須だった

事と較べて画期的だった。だから、単に特急ではなくてビジネス特急と呼ばれて大好評だった。列車の高速化や速達化が本格的に始まったのは、こだま号の成功に依る所が大きい。切符は今風に言えばプラチナチケット。簡単には手に入らず、増発の要望が強くなり、遂には車両が不足し、偶々事故で被災した車両の修理期間中には、同じ型の車両が無くて、急行用の車両で代走する「替えだま」まで登場した。

高速化と速達化の努力は現在でも尚、各地に新幹線網を構築する形で続いている。

人々も慣れてしまって、3時間も乗ると時間が掛かり過ぎると不平を言う人が多くなり列車で旅する旅情や、途中は食堂車や各地の駅弁で食べる楽しみも薄れ、単なる移動手段になってしまった。

そして現代では、早いけど味気ない上に高額な鉄道は金持ちの乗り物、貧乏人は時間が掛かってもバスに乗る時代になった。庶民からすれば新幹線が出来る前の鉄道なら、安く、そしてバスより大分早く到着できた事は本当に皮肉な事だ。