semai92117’s diary

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時刻表昭和史

毎年この時期になるとTVで原爆と戦没者の事が取り上げられ、例年同じような報道が繰り返されている。

私は宮脇俊三氏が昭和20年8月15日に実地で体験した事が綴られている時刻表昭和史を思い出す。戦争末期には各地方都市に対しても爆撃や銃撃が頻繁に繰り返されて、軍人ではない一般市民が大人子供の区別なく機銃掃射の標的となった事が記されている。列車も爆撃の標的とされ各地で鉄道は寸断された。

戦時中は軍需輸送で徴用され、過酷な物資輸送を果たしつつ、最低限の乗客輸送も果たしていた国鉄だが、銃撃や爆撃で線路だけでなく車両も壊滅的な被害を受けた。

しかし、氏の経験に拠ると玉音放送終了直後に、ほぼ定刻で列車がやって来た事が著されている。弾丸の雨をくぐり抜け人や貨物を運んだ職員達は、軍人にも引けを取らぬ程に命がけで職責を果たしていた。

更に、やっと戦争が終わり軍の徴用が無くなったら、今度は進駐軍による無理難題に遭遇したのである。全国に展開する駐留軍の輸送と、戦地から復員した軍人の輸送に加え、疎開していた離散家族の移動が加わり、終戦直後の国鉄は毎日が綱渡りの過酷な業務が続いた。彼らを支えたのは、唯一つ一刻も早く復員兵を家族の元へ返したい、少しでも多くの物資を届けたい、と願う思いだけだった。

戦争を語る時、一般の市民が如何にして命がけの生活や任務をやり通したのか、それぞれの立場や環境で我が子や、周りの仲間に伝えて行く事の大切さを痛切に感じる。

私の母も機銃掃射の洗礼を受けたし、焼夷弾による火災の経験も話してくれた。

私は母の口から直接に私の子供たちにも話してくれるよう頼んだ。

殆どの家庭に戦死者が居られるし、戦時体験をされた家族が居る。TVで作られた番組より生々しい実体験を家族で語り継いで行く事が大切だと思う。

そして、先祖が命がけで戦い、残してくれた日本国を大切にして欲しいと、心から願っている。出征した人達は、祖国に残してきた家族を護る為に戦ったのだから。

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龍ヶ森

龍ヶ森は岩手県北部の好摩秋田県の大館を結ぶ花輪線の信号所だが、駅前がスキー場なので側線に廃車となった旧型客車を置いて、簡易宿泊所として使われていた。私は勿論スキーでなくここを走るハチロクを撮る為に何度か宿泊した。周りにはスキー場だけで人家も無いので食料持参で素泊まり。吹雪の夜はとにかく寒かった。

うろ覚えだけど、リフトは無くてロープトウと言う登坂補助具だけだったと思う。だからシーズン中でも客は少なく、地元の子供達が練習していた記憶がある。

それが、いつの間にかハイカラな名前に代わり、立派な設備を備えたスキー場に生まれ変わったようで、今龍ヶ森と言う地名は無くなってしまった。

都会の造成地等で、開発造成した土地を少しでも好印象にしようと、元からあった地名を変えてしまう事が頻繁に行われているけど、そこの地名の由来や伝承も消えてしまう事の責任を販売者や開発者は全く意に介さない。

最近地震や大雨による土砂崩れ被害が出た時に、元の地名はこれこれで、昔から地すべりが多かった土地です。などとしたり顔で解説する人をTVで見かけると、地名変更に関与した人の罪深さを思い出して、やりきれない気分になる。

龍ヶ森は岩手と秋田の県境で秋田方へ下ると十和田湖への入り口の十和田南へ出る場所。きっと信仰に絡んだ伝説があった場所だろうと思う。

当時はそんな事より小さなハチロクが前後について必死で坂を登る姿を追い求めて付近を徘徊していた。朝昼晩駅売りのアンパンを食べて写真を撮った若い頃の想い出の場所の一つ。

 

 

 

1967年12月龍ヶ森にて

準急はるな

1964年に東海道新幹線が走りだして、それまでの在来線の長距離急行が大幅に減少した。世界銀行から多額の借金をして作った新幹線に旅客を誘導する為の思い切った削減だった。運用から外れた余剰車両を使って、各地の観光地へ今風に言うとリゾート列車が走りだした。準急はるなも、その仲間で、榛名湖方面への観光客輸送を当て込んだ列車だった。車両は急行列車用を使って少しでも安く運んでやろうと、準急になった。

現在のJR各線に準急は走っていないが、当時は準急全盛期で各地で走っていた。中には同じ路線を走る急行列車より表定速度が早い列車もあって、知る人ぞ知る格安列車だった。

列車の種別名称は、狭い日本なのに統一性が無くて、国鉄、私鉄ともに好き勝手に名称をつけている事が、何と延々と現在まで続いている悪弊で、その土地不案内な旅行者にとっては、混乱や誤乗の元凶となっている。何故鉄道会社は放置してるのか、理解に苦しむ。特に乗客に対するサービス心が日本一と思われる関西の私鉄でも様々な名前を使っているのは、誠に不思議。

東京地区でも特急、準特急快速特急快速急行通勤特急から始まって、急行にも種々名前のついた急行があり、準急にも及んでいて、もう何がなんだか意味不明。

関西の国鉄も何を考えたのか「新快速」東京は「特別快速」、もういい加減にしてくれ

そんなに覚えきれない。せめて、列車種別毎の停車駅が表記された車内掲示の図と字を

もっと大きくひと目で分るように表記して欲しい。その為に乗り越した事は一度や二度では無い。そんな時は乗り越し料金なぞ払いたくないと腹立ちまぎれに思うのだが。

先に紹介した内田百閒の阿房列車では、特急は東海道等の大幹線だけで、急行が最高。地方線では急行すら無くて準急まで。その代わり、普通列車の中に長距離走る普通は、一部の駅を通過したりしたらしい。それはそれで、極めて紛らわしい。普通列車と各駅停車は意味が違うと言う事が良く分かる話が出ていた。

どうも鉄道会社は、気まぐれで乗客を混乱に陥れる事を途切れる事無く続けているようだ。乗客は罠にはまらぬようご用心と言う事。

 

1965年10月1日 上野駅にて

 

混合列車

もう一つの鉄道列車の運転方法として、特に地方の閑散路線で人荷一体輸送として実施されていたのが、一本の列車に貨車と客車を連結して走る混合列車があった。

人を乗せる列車でついでに荷物を運ぶと言う発想でなく、貨物と旅客の両方を一本の列車で済ませてしまうと言う究極のコスト削減と言えば聞こえは良いが、人荷の区別なく最小限の手間で両方運んでしまおうと言う事だから、事と次第によっては大変な事になる。私は経験した事無いけれど、貨物の積み込みや、荷降ろしから、果ては貨車の解結作業まで付き合わされる可能性があるから、ひと駅一分停車の各駅停車とは訳が違う。

因みに都会の電車の通常の停車時間は概ね20秒以内らしいから、比較するととんでもない時間を浪費して進む事になる。

それでも、一日に数本しか走らない列車だから、やむを得ない。冬場で道路が積雪したり不通にでもなれば、正に命綱の列車だから、皆我慢して乗る。

写真の当時は、まだ林業や炭鉱などで、現代より遥かに多くの人口が地方に住んでいたのだが、それでも、地域によっては人の流動が少なく輸送需要が少なかったのだろう。

それから60年近く、現代では無数の限界集落が各地に発生して、人に代わって猪や鹿の棲家になる地域が広がりつつある。

産業が無く仕事が無ければ、職を求めて人は移動するのは当然だが、嘗て多くの人が住み、地域の文化が育った地域までが消滅して都会に集中する事は、日本にとって決して好ましい事では無い。これは、はっきり言える事だが解決するには、政治の力が必要。政治家の腕の見せどころだ。政府が悪いだの何だのと文句言うのでは無く、党派を越えて自分の出身地を皆で協力して活力ある地域にする努力をして欲しい。

自分の発祥の地を消滅させたら、万が一将来首相に出世した時に恥ずかしい思いをするだろう。票が集まる東京ばかり見てないで、両親が働き産んでくれた地に恩返しする為に本気で努力してもらいたいと願う。

 

石北本線 常紋にて

大動脈の本線でも混合列車が走った。

 

合造車

合造車は、異なる目的の車室を一両に組み込んだ車両の事。異等級、荷物、郵便、食堂車等々、様々な車両が作られて異彩を放っていたから、目立つ存在だった。

特に郵便と荷物と客室を設備した車両は、好物のひとつだったが、元々種類も数量も少ないから、巡りあう事も珍しかった。

昔の駅の売店は、殆どが鉄道弘済会売店で、各駅の売店への新聞や物資の輸送などにも活躍していた。お客も荷物の一種には違いないけど、物と人を同じ車両で運ぶと言う発想も、結構図太い神経だとは、思う。

但し、何でも昔より現代が進化してるか、と言うと実は違っていて、荷物合造車が鉄道小荷物取り扱い廃止とともに新造されず廃車になってしまったが、各駅への物資輸送の需要は、実は現代でも残っていて、やむを得ず、一般車両の先頭(最後尾)の一部を何とカーテンで仕切った簡易荷物室を設置して輸送している。

荷物輸送が無い時には、カーテンを外して客室として人を乗せる訳だから、昔の合造車の方が、旅客にとっては遥かに優遇されていた事になる。皮肉なものだ。

昔を知る現場の職員は複雑な心境だろう。

 

キハユニ15 1965年水戸にて

東京機関区

現代では、鉄道写真愛好家が増えた事もあって客寄せのイベントが各地で開催されたり、引退や復活と銘打って集客する事業が定着しているが、昔は全く無かった。鉄道好きは幼児体験として通過点では誰にでもあるが、中学生以上で趣味として定着する人は稀少な部類だったと思う。その為かどうか、学生証を提示して鉄研ですと申告すると、殆どの現場では付き添いも無しで入れてくれた。勿論頻繁に列車が通る本線には絶対近づくな、線路はできるだけ横断するな。横断時は指差し確認で安全確認を遵守せよと、厳しく指導は受けたが。自由な分子供心にも好意で入れてくれた人に迷惑は絶対掛けないと注意し緊張したのは、当然の事だ。

最近では、列車妨害や沿線住民の私有地を荒らしたりと犯罪まがいの迷惑行為で、社会から顰蹙を買う事件が度々発生して、自分は行ってもないけど、身が縮む思いがして、益々混雑するイベントを忌避する気持ちが強くなってしまう。

15年ほど前、仕事帰りの酒場で子持ちの若い同僚と飲んだ時に、偶々異口同音に「自分が未熟なので子供を躾ける資格が無い」と嘆いているのを聞いて、びっくりした。

子供は親が教えてあげないとどうして良いか分からない。ありのままの姿で、自分が思う通り、相方と相談しながら、生活の中で話してあげたら、それで良いのだよ。と言ったけれど、心の中では不安な気持ちで一杯になった。

良くも悪くも子は親しか見れない。その子に構えて教えなくても子は見てる。だからこそ、親になったら子に見られてると言う自覚で日々生活するのだ。と言ってしまったら、益々子供を作る事を避けたり、怖がったりするのだろう。でも、それが現実。

歳を重ねて、やっと親の行動や言動がふとしたきっかけで納得できたりするけれど、

そんな事若い人達に言ってみても、「そんなものか」で終わってしまうだろう。

だから、親は自分の思う通り子供に何でも教えて上げなくてはならない。

子供は自分の目で見て、そして自分で判断してる。反抗期には、親の事を全部否定する。そして、自分なりの考えで成長すると思う。間違った方向であってもだ。

だから、たとえ押し付けであっても、子供に、自分の思う通りの事を教えておくべきだと思う。それが躾だろう。最低でも良い事と悪い事、人に迷惑かけない。決まりは護る。程度までは親の責任だと思うのだが、若い人達はどう考えてるのだろう。

 

1965年頃の東京機関区。

山手線に久しぶりで出来る予定の新駅は、この跡地らしい。機関車が牽引する客車列車がほぼ絶滅して、こんな光景は無くなってしまった。

いすゞ・117クーペ

鉄道写真のネガに一コマだけ写っていた車が、いすゞ117クーペだった。

この頃は自家用車が普及しておらず珍しい時代で、当時学校敷地内の社宅?に住んでいた先生が我々生徒に中古のN360A(ホンダの軽自動車)を見せてくれたけれど、何せ中ぶるなので床から雨漏りし雨中を走ると跳ね上げた水が室内に侵入する代物だったので、笑い者にした記憶がある。(勿論妬みと羨ましさが大半)

そんな頃に忽然と姿を表したのがいすゞ117クーペ。クーペは既に死語だがスポーツカーの代名詞だった。今改めて眺めても、60年前のデザインとは思えない美しさ、というか優美な姿だと思う。

全く同じデザインの車体に現代のメカニズムを搭載した車を売り出したら、間違いなく売れるだろうと思うけど、どうだろう。

特に最近各社のデザインが何故か酷似していて、ぱっと見てもどこのメーカーか判然としないだけでなく、何となく歯をむき出しにして走ってるような面相がとても品の無い

顔立ちと感じてしまう。

憧れの時代、大衆化時代を経て車が売れない時代、車を所有したがらない時代へと移り変わって、この先の変化の方向性が見出しにくいが、無くなる事は無いだろう。

美しいと言うコンセプトもアリではないかな。

 

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