八王子機関区 1967年
八王子は鎌倉街道に象徴される古来からの交通の要衝地。明治以降は絹製品の集散地として繁栄したのも、その立地に由来したのだろう。周辺には多数の古戦場や城址が残り、歴史を今に伝えている。
人の往来に合わせて主要な街道沿いに鉄道は建設されたから、初期に敷設された路線の殆どが街道をなぞっている。中央線は甲州街道に沿って塩尻に達し、鎌倉街道に沿って横浜線が敷かれている。江戸が都市として整備される以前のルートとして上州の中山道と連絡する八高線沿いのルートの価値は、現在の評価より遥かに重要視されていたのだろうと推測する。
中央線、横浜線、八高線が集まる八王子は関東地区への物流の玄関口として、私が訪ねた頃には昼夜を問わず賑わっていた。
幹線の中央線は甲府までの急勾配区間は電化されていたが、東海道、山陽や東北等に優先投入されてはじき出された各種旧型電気機関車を見る事ができたし、横浜線の貨物を担当するC58型や八高線貨物担当のD51型も多数在籍していて、昭和初期製の各種機関車の博物館のようだった。
中央線の客車列車は当時多数走っていたが、牽引する電気機関車は貨物用に製造された為に暖房装置が無く、冬季には機関車の次位に暖房車を連結してもうもうと煙を吐きながら走っていた姿は滑稽だった。
生意気盛の年頃だから、ばい煙出して電気機関車走らせるなら、蒸気機関車の方がマシだ、などと話していたのを思い出す。
私が通った学校からも遠くないので、当時は「XXの鉄研です」と学生証を提示すると、何時でも構内に入れてくれた、想い出深い場所だ。
中でも、後日横浜線の蒸気運用が廃止された日には、機関車清掃とヘッドマーク飾り付けに参加してお別れ列車を見送った貴重な体験は、忘れる事ができない。
転車台に乗るD51型
横浜線のC58型
中央線の貨物用旧型機関車
こちらはピカピカの新車 EF64型
こちらも新車のED61型
煙を出す暖房車 中野駅で
七飯 1969年
七飯は函館から札幌へ向かう列車が遭遇する最初の試練の場所。海沿いの函館から高原地帯にある大沼に向かって広大な上り坂がある場所だ。鉄道でも車でも北海道の広大な風景を目の当たりにする所で、私はこの景色を見て北海道に来た事を実感する。
函館に向かう車窓には、厳しい津軽海峡とは別世界のような穏やかな七飯浜が見えるが、この遠浅の海で強風に押し流された洞爺丸が横倒しになった惨事の現場でもある。
青函トンネルが出来る前の鉄道は、全て函館から連絡船で青森に渡る為に、広い北海道内の旅客も貨物も全部通過する場所に厳しい急坂が立ちはだかっている為、この地に新線を作って交通量を確保した。
藤城(代)新線と呼ばれて、急坂の続く区間だけ片側通行の複線にして混雑を軽減させた。勾配を緩和する為に、本線とは別ルートにした為に従来設置されていた駅を通らずに迂回した事が現代にも影響している。
待望の新幹線が函館まで通じたけれど、現在の終点の新函館北斗駅は、何とこの区間に作ってしまった為に、本当に一部だけの特例だが在来線の列車の中に新幹線の始発駅を通らない列車が存在する珍事が生まれている。
土地に余裕がある筈の北海道で、よりによって何故こんなややこしい場所に駅を作ったのか事情は不明だけれど、初めて訪れる観光客は新幹線の駅を通らぬ列車に間違えて乗ってしまったら、さぞかし驚くだろう。
坂が大の苦手な蒸気機関車にとっては、極めて有効な新線の完成で輸送量が飛躍的に拡大して物流に貢献した新線だが、将来電化され分散駆動が前提の電車が走ればお役御免になるのだろうと想像している。
交通量が多く、急坂のある場所は蒸気ファンには絶好の場所で煙を吹きあげて猛然とダッシュする機関車を目当てにでかけた想い出深い場所だ。
また、当時最強の機関車と言われたD52型が活躍する姿を頻繁に見れる場所でもあった。
猛然とスタートするD52
定数一杯の貨車を連ねて藤代新線へ
旅客連車も全力で煙を吹き上げる
総武本線1967年
総武線は東京から千葉で別れて東京湾沿いの内房方面や佐倉、銚子など、外房方面に達する多彩な列車が走る幹線で、当時は総武本線と呼称されていた。
また、中央線の中野駅を起点として御茶ノ水まで中央線と並走している通勤通学路線も両国から千葉までは一緒なので、こちらは総武線と呼ばれていた。
本線の方は、館山や銚子方面に向かう列車で、一部を除いて両国が起点だった。
内房も外房も首都圏から近い格好の海水浴地なので、毎年夏には多数の臨時列車が運転されていた。
房総半島には、鉄道網が複雑に張り巡らされていたが千葉から先は全部非電化単線のローカル線で一部の優等列車以外はまだ蒸気機関車が牽引する客車列車が残っていた。
当時の資料を見てみると、佐倉機関区にC57型11輛、C58型21輛と86型5輛在籍し、都心に近い新小岩機関区には、C57型6輛、C58型7輛、D51型10輛が在籍して各路線を受け持っていた。
今はコンビナートがあってコンクリートと巨大な配管が視界を埋め尽くす内房の姉ヶ崎は、潮干狩りの有名地で地元では採れたあさりのむき身を串に刺し天日干ししてから、天ぷらにした産物を名物にしていたが、貝嫌いの私でも美味しく食べた記憶がある。
書いていて、そう言えば最近は影も形も見なくなったと思ったら、とたんに食べたくなって来た。目の前の海が浚渫され巨大なタンカーが出入りする海になってしまったから、串あさりも出来なくなってしまったのだろう。
1967年の夏の臨時列車運転も、そろそろ無煙化政策によって蒸気列車が廃止されるとの
噂を聞いて、両国から新小岩界隈で写真を撮った。鉄では「海水浴臨」と呼ばれた臨時列車は、車両こそ旧型だが快速で好評だった。
何故か快速なのに、かつて山陽道の花形特急だった「かもめ」の愛称まで付けられた特別な臨時列車が想い出に残っている。
海水浴臨かもめ号8月11日新小岩付近
最後尾に「かもめ」のテールマーク
八高線 1967年
八高線は文字通り東京の八王子と群馬県高崎(倉賀野)を結ぶローカル線だが、首都圏を迂回して関東北部に連絡する物資輸送の幹線だった。また奥多摩から産出する石灰岩と製品としてのセメントを運ぶ路線でもあって、旅客より貨物列車が多い路線で、当時は頻繁に蒸気機関車牽引の貨物が見られる事から東京人には貴重な場所だった。八王子を出てすぐ横田飛行場があり、拝島で青梅線、五日市線と接続していて昭島にあった中島飛行機の工場にも連絡しているから、戦前には重要な軍需輸送も担っていただろう。
因みに八王子からは、相模原、橋本を経由して横浜へ続く横浜線が戦車などを製造していた相模原工廠があるから、文字通り軍需物資輸送の大動脈だったろうと想像する。
戦後は物資輸送の需要が首都圏への輸送に変わり、武蔵野線が整備されて八高線は首都圏に取り残された非電化路線だったが、東北新幹線の沿線住民対策で埼京線が開通した時に川越線も一体化され電化したので一気にベットタウン化したおかげで、徐々に川越と八王子間の開発が進み、つい最近になってようやく電化された。現在の八高線は川越を境に電化と非電化に分かれて直通列車は無くなってしまった。
北海道や東北に遠征するより大分近い八高線は、私にとって絶好の撮影練習の場所であったが、当時の写真を見ると変貌が大きすぎて現在では過去の面影を見つける事は不可能なのが残念。
たった半世紀?前に蒸気機関車が頻繁に走っていたなんて、誰も思わないだろう。
1967年7月 まだ副灯が着く前の207号機
大宮から来た川越線の96 1967年7月
腕木信号機が林立していた川越駅 1967年7月
現在からは想像できない高麗川駅 1967年7月 広場は砂利敷き未舗装だった
廃止の噂で川越線始発の蒸気旅客列車を撮ったが光量不足で失敗。1967年11月川越
雪との戦い
昨年山梨県で記録的な降雪があって、中央線が数日に亘って不通となってしまった。
その時のJR東日本の釈明が、除雪車不足と言う理由だった事に驚いてしまった。
確かに異例の積雪量であろうが、お隣の長野北部には豪雪地帯が数多くあるし、北は青森から山形新潟福島と屈指の豪雪地区を担当してるJR東日本が除雪車不足で運行不能事故を引き起こすとは思いもよらなかった。
近年では、只見線や飯山線で客不足の為か、雪崩の危険と言う理由で除雪作業をせずに冬季運休を続けているが、まさか大動脈の中央線で、1メートル以下の積雪で不通が数日間続いたのは驚きだった。
今年の降雪はどうか分からないけれど、効率経営の元では滅多に無い積雪の為に除雪車両を新造する事は難しいだろうから、再発の可能性はあるのだろう。
中央線は旅客とともに首都圏への物資輸送の大動脈だから、地震などの大災害と降雪が重ならない事を祈るしか無い。
雪国ではどこにでもあったキ型
一番列車の前に除雪作業。こんな簡易な設備すら現代では無くしてしまったらしい。
必死で運行を確保していた鉄道マンの頑張りには、感謝せずに居られなかった。
2016年の私の想い出
バタバタと日常を過ごしているうちに、大晦日になってしまった。
今年の想い出として残しておきたいと考えているのが、渋谷駅を中心とした開発事業で消滅してしまった想い出深い景色だ。
いとこが東横線沿線に住んでいた為に割と頻繁に乗車した渋谷駅の独特の姿は、今年消えてしまった。
日々姿を変える東京の街だから、何れ無くなるだろうと漠然と思っていたけれど、実際に消えてしまうと何とも物足りない気がする。
開発工事の話は随分前から話題になっていたので、折にふれて記録に残した。何せ地上にあった終端駅が、地下に潜って中間駅に変わったのだから、ひと駅前の代官山から山手線を越えて神田川沿いに走る高架線全部が廃止された。その辺りは空が開けたように開放されたから、住民はさぞ喜んだろうと想像する。
地域開発は当分続くのだが、廃止された地上構築物の撤去は相当の速さで進んで、次に見た時には痕跡も見つからぬほど進捗が早かった。
少しづつ消えて別れを惜しむと言うような悠長さではなく、忽然と消えた気がする。
もう写真でしか見れないと思うと、寂しく感じるのは歳のせい・・・
恐る恐る始めたブログを見て下さった方に、感謝致します。
ありがとうございました。
渋谷のシンボルかまぼこ屋根に風よけ側壁、奥は東急百貨店
銀座線がデパートから出てくる。
山手線を高架で越える代官山付近
急カーブで川沿いに終点の渋谷駅方向へ 既に撤去工事の養生が始まっていた
都電銀座線
都心の中心地銀座4丁目の交差点を走る都電銀座線は、1967年12月9日に廃止された。車の走行に邪魔で危険であるとの理由だった。
この日は偶然にも母が属していたアマチュア合唱団の定期公演を聴きに出かける用があったので、最後の日を見に出掛けた。
当時は現代のように何かが終わると言うと黒山のような人が集まり警備員が出動すると言うような騒ぎは起こらず静かなものだったが、この時は沿線に驚くほど人が集まって見送っていたのが強く印象に残っている。
鉄チャンだけでなく、庶民の足として多くの人が別れを惜しんでいたのだと思った。
私が見た時は、乗車する人で長い列が道路の真ん中に出来て、警官が出て交通整理をする程の人出だった。
東京だけでなく、自動車の増加は全国各地で細々と走っていた路面電車の多くを駆逐してしまったが、皮肉な事にそれから半世紀も立たぬ内に見直され、今多くの都市で復活、あるいは新しく路線を作る動きが出てきている。
超高齢化社会は、戦後のベビーブームで生まれた人達が高齢化して現出している。彼等が戦争で失われた労働力として高度成長を実現し邪魔になった昔の乗り物を排除したが、老齢になり車が使えなくなると、近所を走る路面電車が便利に見えてくる。丁度同じサイクルで消滅と復活が起こっている事も興味深い。
環境問題も勿論理由の一つかも知れないけれど、高齢者が運転する車が全国で暴走して死傷事故が頻発する事象を見ても、身近な乗り物で代替して高齢者の運転を止めさせる為の手段の一つとして町の中心部を走る路面電車の価値は大きいだろう。
慢性的な中心部の渋滞に悩む宇都宮市が新設しようと計画中である事は、今後他の地方都市へも波及するに違いないと思う。
しかし、何度も書いたように、線路を新しく敷設する事は膨大な費用と時間がかかる。願わくば、現在存在している線路は、例え廃線になろうとも、将来復活の可能性が皆無でない限りは路盤と共に残しておいて欲しいと思っている。
実際、都内を網の目のように走っていた都電の線路と路盤を存置したまま舗装した場所が僅かながらある。もし、復活させようとなったら、その区域は舗装を剥がすだけで、昔の鉄路が出てくる。レールを代える必要はあるが、新設するより簡単で早い。
都市計画は百年の計と言われる。目先の問題だけでなく将来を俯瞰したムダのない計画が強く望まれる。既存の設備を過去の邪魔物として壊す事が一番手っ取り早く簡単な事は承知してるが、これからの若い世代の方々には、従来のスクラップアンドビルド方式を今一度考えなおして見て欲しいと願っている。
欧州の主要な都市は超成熟都市だが、今だに日本の京都や奈良に代表されるような、躯体を残す更新建築が多数を占めている。翻って東京を初めとする地方都市では、相変わらず破壊と新造が主流だ。地震国だから基準が変わり古い建物は危険と言う思想が、全ての分野に浸透して、新しい事が安心や安全に必須と考える傾向が強い事は充分に理解できる。
だが、将来に亘って使える物まで無闇に壊してしまう事は無いだろう。新しい技術や知恵を集めて、末永く使う事も是非選択肢の一つに入れる社会になって欲しいと願う。
お別れ乗車に多くの人が詰めかけた。銀座4丁目電停
最終日は電飾をつけて走った。
車に埋もれて走る。 須田町交差点
こんな状態でも邪魔にされたのか新造車が勿体無い。神田にて