semai92117’s diary

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長万部

長万部は、昔お笑いタレントが妙なアクセントと下品な振りでネタにして有名になったけれど、観光客は殆ど居ない町だ。近傍に惹きつける観光地が無いからだ。しかし、鉄道で北海道を訪れる人は必ず通る駅でもある。

1928年に東室蘭で北海道炭礦が室蘭と岩見沢間で石炭積出し用に敷設した路線を国が買収した室蘭本線と接続する迄は函館本線の駅だった。

小樽周りの函館本線に較べて急坂や曲線が少ない事や石炭、木材、農作物等の産地からの輸送には最適の路線で、函館本線に代わって人貨共に大動脈になった。

その分岐点に当たる長万部は、蒸気機関車撮りに出掛けた私には重要な撮影場所だった。何しろ函館から長大な貨物列車が頻繁に来る、そして函館本線室蘭本線からも来て、頻繁に出入りし、その間を方向別に貨車を仕分けする入れ替え作業が昼夜行われている活気ある駅だった。

駅はそんな活気に満ち溢れていたが、観光客の殆ど居ない町は静かだ。

町の東側海沿いには広大な原野が広がって、草樹も少ない荒野は冬は全くの墨絵の世界だった。それでも、当時は瀬棚、寿都、岩内等、日本海に面する寒村へ枝線があったので、それなりの乗り換え客がいたけれど、全て廃線になり車社会に変わった現代では、更に静かな町になっているだろうと思う。

人の出入りが少ない町には、昔の文化が変わらずに現代に続いている事が多い。

素の北海道の町の暮らしを知るには最適な町の一つだろう。

地元の住人の意思に反するとは思いつつも、変わらずに残って欲しいと思う町の一つだ。

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路線図の配置に各路線の性格が出ている

 

函館から長い貨物列車が到着した

小樽築港

北海道の近代化は小樽から始まったと言える。江戸時代から北前船の基地で古来舞鶴との間に頻繁な往来があった事と豊富なニシン漁場がすぐ近くにあった事もあって、経済の中心地として発展した。やがて内陸地帯への開拓の為に、移動手段として交通網の整備が始まった。北海道初の鉄道が敷設され、鉄道網構築の先駆けとなった。

小樽の街は港のすぐ傍まで丘陵が迫る狭隘地で埋め立てても足らず、湾に沿って町が展開された。だから、小樽の機関区は小樽から3駅目の小樽築港に設けられた。千歳周りが開通するまでは、札幌と函館を結ぶ大動脈で、羊蹄山の裾野を通る急峻な登山ルートの入り口に当たる為、狭い町に目一杯の大規模な機関区があった。

蒸気機関車が全廃された後も機関区跡地は長らく空き地だったが、観光地としての復活を目指して、大規模再開発され、外資の複合施設や俳優の石原記念館なども新設されて、全く往時の面影は跡形もなく消えてしまった。

初めて機関区を訪問したのは、1966年の夏で家族旅行の時に頼んで別行動させてもらって、一人で訪ねたのだが、何か危急の為にと預けられた千円札を途中で紛失してしまった、とても苦い想い出の地でもある。何しろ当時の千円だから相当の価値で、頭の中が真っ白になった。爾来私はお金を紛失した事が無いから、よほど堪えたのだと思う。

旅客の移動が苫小牧経由に変わって小樽は静かな町に変貌したが、明治時代の活気を伝える史跡や文化が香る町で、銀座や新宿と変わらぬ札幌よりも、北海道の旅情を残してる町だと思う。更に余市から積丹半島の絶景に接するにも好都合の場所で、道東の知床や道南の洞爺だけが北海道じゃないぞ、富良野のような新しく作った観光地でもないんだぞ。って宣伝したらどうかと思う。観光客に媚びずに歴史を伝える、私の好きな町だ。

 

1967年12月小樽築港にて

 

TVドラマに出演した9633号機

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端正な作りの機関区事務所

 

定山渓

北海道と言えば野趣溢れる温泉が各地にあって、有名所の別府や熱海などの温泉地とは全く違う魅力が溢れていた。お小遣いを貯めて蒸気機関車を撮りに遥々遠征していた貧乏学生には無縁だけれど、札幌の郊外に定山渓温泉があり道内で一山当てた成金や高給取りの人々の憩いの場所だった。昔風に言うと、札幌の奥座敷と言った場所だろう。

その定山渓温泉に遊びに行く人を当て込んだ鉄道が、定山渓鉄道だった。

私が出掛けた1968年頃には、既に経営が傾いて廃線の噂が出ていたので、出掛けた。

当時の北海道の国鉄は、蒸気機関車が主流で殆どが非電化だったが、定山渓鉄道は電化されていて、電車が走っていた。勿論市内を走る各地の市電は電車だったが、こちらは小型電車でなく立派な電車が走っていた。なかなかスマートな電車も居て、廃線後は他社に売却される程立派な車両だった。

日常飽きるほど電車を見ている私が、まともに電車を撮ろうと思ったのは、この時だろうと思われる。味のある古い車体と洗練されたスマートな電車が混在する不思議な鉄道だった記憶がある。

鉄道は廃止になったが、会社はバス運行へと変わり現在も定鉄バスとして続いている。

 

定鉄豊平駅にて

 

スマートな車体の2101

札幌駅

蒸気機関車を撮りに出掛けていた頃の札幌駅は地上駅だった。その当時には既に千歳線経由函館行が大勢を占めていて、小樽経由の列車は少なかった。

昔の国鉄は普通でも急行でも長距離の設定が多くて、函館発釧路行、網走行、稚内行が多数設定されていたが、千歳周りだと札幌で逆行する事になる。

それでも、小樽経由の山越え路線は特に厳しい冬季は遅延が多く、酷い時には数時間の遅れもあったようで、千歳経由を機会に、札幌で系統を分断するダイヤに置き換えが進められていた。現在では函館からは、全ての優等列車が札幌行。そして石勝線が出来てからは、手前の南千歳で帯広・釧路方面は乗り換えになり、稚内、網走方面は札幌で乗り換えになっている。

学割周遊券の有効期限3週間をフルに使うと、相応の宿賃が嵩む為に考え出したのは、札幌起終点を利用して、夜行列車に乗車して宿代わりにする事だった。勿論旅程の都合で、札幌迄戻る事は無く始発の接続駅で乗り換える。だから畳の上で足を伸ばして眠る事は稀だった。検札に来た車掌さんから、「お前らみたいのが多いから、国鉄は赤字なんだ」と途中下車のスタンプばかりの周遊券を戻しながら嫌味を言われた事もあった。

その札幌駅は、1990年に改装され全面高架駅になり、それまで吹きさらしだったホームが屋根と壁で覆われた綺麗な駅に生まれ変わった。

昔は蒸気機関車の列車も多く、今のような構造だと煙に巻かれて見えなくなるが、電化も進み蒸気は無くなったので屋根と壁をつけたのだろう。

しかし、ディーゼル列車も多数発着している為、構内にディーゼル軽油の排煙と臭気が蔓延して目が痛くなるほど空気が悪くなった。懐かしい石炭の臭いでなく油が燃える臭いだから、吐き気を伴う悪臭で折角の旅情も吹っ飛んでしまう。

昔のように発着する列車を見るためだけにホームに上る事も無くなり、整備された駅になったけれど、一刻も早く立ち去りたい場所になってしまった。

仕事で札幌を訪れる機会も多かったが、列車を待つ数分でも苦痛を感じるほど臭いのには本当に閉口した。北海道の表玄関のターミナルとしては、著しく印象が悪い駅になってしまったのは、本当に残念。

リッチな汽車旅を演出する豪華列車を運転しても、乗降する駅が我慢できぬ位臭いと言うのは、大いに旅情を削がれる事だろう。

寒さよけとの兼ね合いもあるだろうが、臭気は我慢しづらい。誰でも呼吸を止められないのだから、何とか改善してもらいたいものだ。

 

自分で撮った写真だから、あの臭いを思い出してしまう。

気動車特急 オホーツク。表記がロシア語なのも違和感が強い。

旭川機関区

旭川と言えば札幌に次ぐ北海道第二の都市と言う枕詞がつく街だけれど、私の感覚では蒸気を撮りに出掛けた1970年代後半の当時の方が現代より遥かに活気に満ちていたように思う。北海道のほぼ真ん中に位置して、石北本線で北見、網走方面と名寄を経由して稚内方面への宗谷本線が旭川函館本線に合流し札幌へ通じる交通の要衝だから、林業が栄えた当時は各産地からの集散地だったのだろう。

私が訪れた当時の旭川機関区には、C55型機関車が集まって主に宗谷本線の客車列車を牽引していた。一般的に同好の士の間ではC57型機関車が最も優美であると言われて、「貴婦人」などと言う、凡そ真っ黒な鉄の塊に相応しくない冠詞が贈呈されているが、私の中ではC55型機関車が華奢で繊細な姿で一番のお気に入り機関車だった。

C55型の動輪は、それまで標準だったスポーク型動輪の改良型で内周外側に水かきのような補強がついていた。それでも、推進力の原点である動輪への負荷に耐える為に、以後生産された機関車は全てボックス型に変更され、こちらが標準になっていた。

敢えて女性に例えるなら、逞しい筋骨のC57型サラブレッドのように繊細な足のC55型と言う事で、私はC55型の魅力に惹かれていたのだ。しかし機械物だから、性能は後発のC57型が断然良く、C55型は数を減らしていた。

 

ホームの立ち食いそばが断然美味しかった音威子府駅にて

北見機関区

機関区の片隅で、見たことの無い客車を見つけた。

種別を表す形式はマヤとなっていて、事業用である事が分かるが、窓配置から連想できる現役時代の車体と明らかに違う姿に、思わず写真を撮った。

帰った後で調べても詳細は判らずだった。しかも床下から蒸気らしい煙が見え現役時代には無かった煙突もついていて、実際に使われているらしい。ここからは推測だけれど、この車両は現場で働く作業員達が休憩する詰め所として使われていたのではと思う。寒冷な北見で客車を詰め所として使うには、両端の通路の開放部は塞がないと使い物にならない。その為に妻板を恰も展望車のようにガラス窓に改造したのだろう。

ぱっと見たら、如何にも実車としてありそうな表情をしている。

詰め所代用にしては、随分と手の込んだ改造(改良)をしたものだと思う。

現場で働く人達の職場環境としては、現代風に言えば極めつけの3-4K職場のうえ、極寒の地だから、せめてもの休憩所として頑張って作ったのではないかと勝手に想像して、微笑ましく思った。

 

機関区

蒸気機関車を求めて写真を撮りに出かけると、走行写真だけでは出会えなかった機関車に会いに最寄りの機関区を尋ねた。昼間は沿線で走行写真を撮り一段落すると機関区訪問と言う行程が定番だった為、午後の遅い時間や夜間と言う事も屡々だった。

電気機関車は停電でない限り通電すれば動くが、蒸気機関車は石炭と水が必須なだけでなく、一定間隔で石炭の燃え殻を除去する必要があり、交通の要衝毎に設けられた機関区には昼夜を問わず仕業の合間の機関車が頻繁に出入りしていた。

入ってきた機関車は例外なく火床の掃除をし、給水と給炭をして簡単な足回りの点検をして次の仕業に就く準備を整えるから、機関区にはその為に必要な設備や人員が整えられていた。そして、前後が峻別された蒸気機関車は、向きを変える為の転車台が備えられていた。現代になって地方の割合大きな駅へ行くと駅の規模に不釣り合いな広大な敷地が空いていたりするのは、嘗て蒸気機関車の時代に設置された様々な必要関連設備の名残の空き地なのだ。既に駅前再開発等で消滅して昔を偲ぶ事は難しいけれど。

1967年頃の国鉄には全国に約180程の支区を含めた機関区があったが、私が尋ねたのは、ほんの一部だけど、多くの機関車に巡りあい写真に撮った想い出の数は、走行写真を撮った想い出の数より遥かに多い。

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独特の筆致で記された看板の北見機関区は石北峠を越え旭川へ通じる石北本線の旅客と貨物が主業務。吉村昭氏の著作にも出てくる常紋の険しい坂がある。

 

当時の主(ぬし)はC58の1号機。今は厚化粧させられて梅小路で眠っている。