semai92117’s diary

想い出の記録 掲載写真の著作権を留保しますので無断転用はお断りです

シロクニ

シロクニこと、C62型蒸気機関車は戦前軍需輸送優先で大量に製造された貨物用機関車を旅客輸送に適した機関車の不足を補う為にD52型機関車のボイラを転用して昭和23年に製造された。一般に車軸数が多ければ粘着力が増して牽引力が増加するが、速度は落ちる。だから、日本ではD型は貨物、C型は旅客用とおおまかに区分され使われていた。但し戦時中に余りにも貨物用に偏って製造された事でD型も旅客用に使った。

だから、旅客用C型機関車を使うのは、速度重視の列車に充当された。

中でも、シロクニは当初から特急列車や急行に使われる花形機関車だった。

何せ貨物用最大最強のD52型のボイラ転用だから、国鉄史上最大、最強の旅客用機関車だった。後に実験だけだが、狭軌路線での蒸気機関車の速度記録を達成した。現代風に言えばギネス記録を保有してる。

その花形一族の頂点とも言える歴史を持つ機関車が2号機 C622だった。

二番目に製造、登録されたこの機関車は、かつて特急つばめを牽引する仕業に専属的に充当された為、特別に燕のシルエットが車体に取り付けられていた。その後特急の運用から外れ、転属した後も燕マークは残された。当時の国鉄職員達の心意気というか愛情を感じる。由緒ある機関車を大切にと言う気持ちを推し量る事ができる。

何でもレッテル貼りの為に造語まで作るメディアが「スワローエンジェル」と言う名前を付けてこの特別な機関車をはやし立てた為に、当時は小樽築港に所属して特別な扱いも無しに僚機とともに函館まで急行列車を担当していた2号機が一躍トップスターになってしまった。

その為かどうか、現在でも京都の梅小路で動態保存機として活躍している。

 

 

 

1966年小樽築港にて

布原信号所 1968年

国鉄の動力近代化計画が進捗し、各地で電化工事やディーゼル化(無煙化)が進んで来た事で、蒸気機関車が消えるニュースが各地で報道された。それを契機として、各地でお別れイベント等が催され、SLというメディア造語が出来、それに釣られて俄撮り鉄も増えてきた。

それを当て込んだ訳でも無いのだろうが、伯備線と言う中国地方のローカル線で三重連が運転されているとの情報があった。国鉄の組織は主要区分として管理局があり、局内の要衝地に機関区が設けられていた。機関車は機関区に所属して仕業を担当していた為、ダイヤによっては所属機関区へ戻る「回送」が生じる。

空でただ戻る事は無駄なのだが、どうしても往復セットと言う訳に行かない。そこで、回送を兼ねて牽引定数一杯の重量列車の補助(補機)をしながら戻る事が行われていた。布原の三重連は、この回送兼用のもので時流に乗った話題作りが推測される程貨物量の少ない路線だった。

それでも、釣られて遠路はるばる東京から出掛けたが、行ってみると周辺のあちこちに

マムシ注意の看板が立っていて同好の先人達が被害に遭ったのだろうと思うと、気味が悪かった。

後で調べたら、中国地方中部の山間地域は本当にマムシの産地と言えるほど被害も多くて病院も無いから命を落とす人も多い事が分かり、以後草の繁った道を歩く時は足元をよく見て歩くようになった。

f:id:semai92:20160820145109j:plain

 

1968年3月布原にて

 

奥中山

花輪線の分岐駅好摩から東北本線を青森方へ進むと奥中山駅がある。ここは、東北本線の峠越えで輸送の大動脈。定期的に三重連の仕業がある、有名な場所だった。

ただ、運転時間帯と太陽の位置関係から撮影テクニックが必要な場所で、勉強不足の俄カメラマンの私には難しかった。満足の行く写真が取れていない。

蒸気機関車の写真は、冬場の方が煙や蒸気が気温の関係で撮りやすく見栄えがするので、冬季に好んで出かけるが、積もった雪の反射で被写体が真っ黒になりやすく、設定が難しい。止まっている被写体なら露出計などで値を調整できるけど、遅くても走ってる被写体では、それもできず専ら勘と経験が頼り。

しかも今のカメラのような連射機能は無く手巻きだった。

だから、多量のフィルムが残っても、見れる写真はほんの一握りしか無いのが無念。

ネガを見るたびにほろ苦い思いがこみ上げて来るけど、映画じゃないからやり直しはできない。

       f:id:semai92:20160818171602j:plain

 

1967年東北本線 奥中山付近にて

龍ケ森の三重連

蒸気機関車を撮る事に熱中していると、より迫力を感じる写真を求める事になって、単機より重連重連より三重連と志向がエスカレートして行った。

全国各地で機関車の主力として蒸気機関車が活躍していたが、三重連での牽引を定期的に運行している場所は少なかった。

その一つが龍ヶ森だった。非力なハチロクが三輛で目一杯頑張る姿は、迫力より微笑ましさを感じるほどゆっくりと坂を登る。見物客には微笑ましく見えても、運転士は皆必死で定数一杯の貨車を引き上げて行く。停まってしまうと、ズルズル下がってしまうから、必死なのだ。それでも、ダイヤ通り正確な時間で走るのだから、現場の職員の方々の意識の高さは並大抵のものではない。ローカルも幹線も全く同じ意識で毎日の仕業を果たす国鉄職員の質の高さは、技術力を誇る日本の製造業の品質を支える基礎だと思う。

 

 

時刻表昭和史

毎年この時期になるとTVで原爆と戦没者の事が取り上げられ、例年同じような報道が繰り返されている。

私は宮脇俊三氏が昭和20年8月15日に実地で体験した事が綴られている時刻表昭和史を思い出す。戦争末期には各地方都市に対しても爆撃や銃撃が頻繁に繰り返されて、軍人ではない一般市民が大人子供の区別なく機銃掃射の標的となった事が記されている。列車も爆撃の標的とされ各地で鉄道は寸断された。

戦時中は軍需輸送で徴用され、過酷な物資輸送を果たしつつ、最低限の乗客輸送も果たしていた国鉄だが、銃撃や爆撃で線路だけでなく車両も壊滅的な被害を受けた。

しかし、氏の経験に拠ると玉音放送終了直後に、ほぼ定刻で列車がやって来た事が著されている。弾丸の雨をくぐり抜け人や貨物を運んだ職員達は、軍人にも引けを取らぬ程に命がけで職責を果たしていた。

更に、やっと戦争が終わり軍の徴用が無くなったら、今度は進駐軍による無理難題に遭遇したのである。全国に展開する駐留軍の輸送と、戦地から復員した軍人の輸送に加え、疎開していた離散家族の移動が加わり、終戦直後の国鉄は毎日が綱渡りの過酷な業務が続いた。彼らを支えたのは、唯一つ一刻も早く復員兵を家族の元へ返したい、少しでも多くの物資を届けたい、と願う思いだけだった。

戦争を語る時、一般の市民が如何にして命がけの生活や任務をやり通したのか、それぞれの立場や環境で我が子や、周りの仲間に伝えて行く事の大切さを痛切に感じる。

私の母も機銃掃射の洗礼を受けたし、焼夷弾による火災の経験も話してくれた。

私は母の口から直接に私の子供たちにも話してくれるよう頼んだ。

殆どの家庭に戦死者が居られるし、戦時体験をされた家族が居る。TVで作られた番組より生々しい実体験を家族で語り継いで行く事が大切だと思う。

そして、先祖が命がけで戦い、残してくれた日本国を大切にして欲しいと、心から願っている。出征した人達は、祖国に残してきた家族を護る為に戦ったのだから。

f:id:semai92:20160815112843j:plain

 

 

龍ヶ森

龍ヶ森は岩手県北部の好摩秋田県の大館を結ぶ花輪線の信号所だが、駅前がスキー場なので側線に廃車となった旧型客車を置いて、簡易宿泊所として使われていた。私は勿論スキーでなくここを走るハチロクを撮る為に何度か宿泊した。周りにはスキー場だけで人家も無いので食料持参で素泊まり。吹雪の夜はとにかく寒かった。

うろ覚えだけど、リフトは無くてロープトウと言う登坂補助具だけだったと思う。だからシーズン中でも客は少なく、地元の子供達が練習していた記憶がある。

それが、いつの間にかハイカラな名前に代わり、立派な設備を備えたスキー場に生まれ変わったようで、今龍ヶ森と言う地名は無くなってしまった。

都会の造成地等で、開発造成した土地を少しでも好印象にしようと、元からあった地名を変えてしまう事が頻繁に行われているけど、そこの地名の由来や伝承も消えてしまう事の責任を販売者や開発者は全く意に介さない。

最近地震や大雨による土砂崩れ被害が出た時に、元の地名はこれこれで、昔から地すべりが多かった土地です。などとしたり顔で解説する人をTVで見かけると、地名変更に関与した人の罪深さを思い出して、やりきれない気分になる。

龍ヶ森は岩手と秋田の県境で秋田方へ下ると十和田湖への入り口の十和田南へ出る場所。きっと信仰に絡んだ伝説があった場所だろうと思う。

当時はそんな事より小さなハチロクが前後について必死で坂を登る姿を追い求めて付近を徘徊していた。朝昼晩駅売りのアンパンを食べて写真を撮った若い頃の想い出の場所の一つ。

 

 

 

1967年12月龍ヶ森にて

準急はるな

1964年に東海道新幹線が走りだして、それまでの在来線の長距離急行が大幅に減少した。世界銀行から多額の借金をして作った新幹線に旅客を誘導する為の思い切った削減だった。運用から外れた余剰車両を使って、各地の観光地へ今風に言うとリゾート列車が走りだした。準急はるなも、その仲間で、榛名湖方面への観光客輸送を当て込んだ列車だった。車両は急行列車用を使って少しでも安く運んでやろうと、準急になった。

現在のJR各線に準急は走っていないが、当時は準急全盛期で各地で走っていた。中には同じ路線を走る急行列車より表定速度が早い列車もあって、知る人ぞ知る格安列車だった。

列車の種別名称は、狭い日本なのに統一性が無くて、国鉄、私鉄ともに好き勝手に名称をつけている事が、何と延々と現在まで続いている悪弊で、その土地不案内な旅行者にとっては、混乱や誤乗の元凶となっている。何故鉄道会社は放置してるのか、理解に苦しむ。特に乗客に対するサービス心が日本一と思われる関西の私鉄でも様々な名前を使っているのは、誠に不思議。

東京地区でも特急、準特急快速特急快速急行通勤特急から始まって、急行にも種々名前のついた急行があり、準急にも及んでいて、もう何がなんだか意味不明。

関西の国鉄も何を考えたのか「新快速」東京は「特別快速」、もういい加減にしてくれ

そんなに覚えきれない。せめて、列車種別毎の停車駅が表記された車内掲示の図と字を

もっと大きくひと目で分るように表記して欲しい。その為に乗り越した事は一度や二度では無い。そんな時は乗り越し料金なぞ払いたくないと腹立ちまぎれに思うのだが。

先に紹介した内田百閒の阿房列車では、特急は東海道等の大幹線だけで、急行が最高。地方線では急行すら無くて準急まで。その代わり、普通列車の中に長距離走る普通は、一部の駅を通過したりしたらしい。それはそれで、極めて紛らわしい。普通列車と各駅停車は意味が違うと言う事が良く分かる話が出ていた。

どうも鉄道会社は、気まぐれで乗客を混乱に陥れる事を途切れる事無く続けているようだ。乗客は罠にはまらぬようご用心と言う事。

 

1965年10月1日 上野駅にて