三鷹 1966年
三鷹駅を通る中央線は、松本方面への列車と高尾(昔は浅川)までの通勤路線が同じ線路を走っていた。更に名古屋から多治見を経て松本へ至る路線も中央線だが、戦前のように中央線経由で新宿から名古屋行の列車は無く、全て松本、長野へのアクセスとなっていた為、名古屋方を中央西線、新宿方を中央東線と呼んで区別している。
だから、三鷹を通る中央線は松本方面の列車については中央東線と呼称していた。
東線は、甲府までは小仏峠を初めとする勾配の多い難所であった事や兵員輸送の関係から、電化されていて貨物用の機関車に冬季には暖房車と呼ぶボイラを積んだ車両で石炭を炊いて作った蒸気を客車に送って暖房していた。
甲府から先は、甲府盆地の西の八ヶ岳に続く山岳路線で西線との分岐点の塩尻まで坂が続くけれど、長く非電化で蒸気機関車が走っていた。
戦後の復興が順調に進みレジャー客が増加するに連れ風光明媚な観光地だけでなく、一般に数が減る冬には名だたるスキー場が多く点在する事もあってか、この年に松本まで全線電化が完成し、歌にもなった特急あずさ号が誕生したし、ぴかぴかの新造車も登場した。
この方面の列車増発に不可欠な混雑緩和策として新宿と高尾間のうち、中野と三鷹間の複々線高架工事も完成し、国鉄初の地下鉄乗り入れ(東西線)も開始される事になった。(元々新宿と中野間は複々線だった)
中央東線近代化元年の1966年に開業前のお披露目が三鷹電車区で行われ地元の利で見学に行った。
先に触れたが、戦前の国鉄では軍需輸送の為に主要な都市間連絡について、必ず複数ルートを確保して万が一の有事に備えていた。東京と大阪には、東海道、中央、信越上越北陸経由と3つのルートが確保されいたし、仙台へは東北と常磐ルート、青森へは東北と羽越奥羽ルート等々重要拠点への複数アクセスを確保していた。
東北大震災でも三陸沿岸へ石油を運ぶのにこうした複数のルートがどれほど役立ったか。にも拘らず、その後の人口流出や元々の利用者減による不採算を理由として、バス代替輸送に置き換えられてしまっている。
後になって線路を引き直すのは、既存を保守するより膨大なコストが掛かる。鉄路のありがたさをきちんと記録に残して記憶が風化しない事を願っている。
その理由は、全国に新幹線網が構築されると同時に在来線は県毎に分断され地元資本の第三セクターに転じてしまっている。北陸新幹線が金沢まで通じて、現在も物流の大動脈である日本海縦貫線が石川、富山、新潟の3社に分断された。
関西方面から秋田方面へ物資を運ぶ為にはJR西、東の他に新たに三セク3社と交渉が必要になった。
新幹線開業で、観光客が増えると日の当たる面しか報道されないけれど、生活に直結してる物流の面では課題も生まれたのだ。震災等の非常時に、この課題が足かせとなって支障を来さぬよう願うばかりだ。
近い将来中央リニア新幹線が開業したら、やはり在来の中央線は分断されてしまうのか、そうなって欲しくないと願うばかりだ。
あずさ用特急車 181型