semai92117’s diary

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機関区

蒸気機関車を求めて写真を撮りに出かけると、走行写真だけでは出会えなかった機関車に会いに最寄りの機関区を尋ねた。昼間は沿線で走行写真を撮り一段落すると機関区訪問と言う行程が定番だった為、午後の遅い時間や夜間と言う事も屡々だった。

電気機関車は停電でない限り通電すれば動くが、蒸気機関車は石炭と水が必須なだけでなく、一定間隔で石炭の燃え殻を除去する必要があり、交通の要衝毎に設けられた機関区には昼夜を問わず仕業の合間の機関車が頻繁に出入りしていた。

入ってきた機関車は例外なく火床の掃除をし、給水と給炭をして簡単な足回りの点検をして次の仕業に就く準備を整えるから、機関区にはその為に必要な設備や人員が整えられていた。そして、前後が峻別された蒸気機関車は、向きを変える為の転車台が備えられていた。現代になって地方の割合大きな駅へ行くと駅の規模に不釣り合いな広大な敷地が空いていたりするのは、嘗て蒸気機関車の時代に設置された様々な必要関連設備の名残の空き地なのだ。既に駅前再開発等で消滅して昔を偲ぶ事は難しいけれど。

1967年頃の国鉄には全国に約180程の支区を含めた機関区があったが、私が尋ねたのは、ほんの一部だけど、多くの機関車に巡りあい写真に撮った想い出の数は、走行写真を撮った想い出の数より遥かに多い。

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独特の筆致で記された看板の北見機関区は石北峠を越え旭川へ通じる石北本線の旅客と貨物が主業務。吉村昭氏の著作にも出てくる常紋の険しい坂がある。

 

当時の主(ぬし)はC58の1号機。今は厚化粧させられて梅小路で眠っている。

 

世界初 寝台電車

寝ようとしても周りが騒がしいと眠れない人が多い。だから鉄道の寝台車と言えば客車と言うのが世界の標準だった。しかし客車列車は速度が遅い。せっかちな日本人は、何と世界初の寝台電車を作って大阪から九州方面の夜行列車に投入した。このせっかちが幸いしたのか、国鉄の防音対策が効を奏したのか極めて好評だったので、増備型が作られて中古が定番だった青森方面に新車が配備された。

九州方面への世界初の電車寝台列車は、愛称が月光と名付けられたのに因んで月光型と呼ばれた。

当時普通寝台は三段式が標準だったので、この電車も三段だが欲張って昼間は通常の客車として使えるように線路方向に平行に寝台がセットされた。従来の客車寝台は、線路と直角に三段だから丸い屋根の頂点まで使えるが、平行だと頂点部は通路になる為、高さが確保できず、寝台セット時に座高分の高さを確保できなかった。起き上がって服を着る事は不可能で、寝たまま服を着ると言う、決して良い環境とは言えなかった。

因みにグリーン寝台も線路と平行に寝る方式が標準だが、上下二段なので充分な高さが確保されていた。

そんな電車だが、最高運転速度130キロの俊足で従来の客車より早く着ける事はのんびりした東北方面でも好評だった。実は出発から到着までの時間は、経営効率に多大な影響がある。分り易いのは、昔の九州連絡の列車で24時間以上掛かる列車が多かった。例えば11時発翌日13時着の列車だと、終着の前に翌日の発車時刻が到来するから、全く同じ名前、編成の列車が必要になる。長距離を走る列車の宿命だけど、コストが嵩む。従来の寝台車はヒルネと言って昼間も寝台のまま座席車として遠慮しながら使ったが、この電車は下段の寝台だけソファとして使うが、後は全部収納して通常の座席車として使うよう設計して、昼夜無関係に使用された。その為回転率が飛躍的に向上し効率が上がった。1968年に同好の会でこの初物が公開されたので、興味深々で見学に出掛けた。運用前の訓練期間中の公開だった。

 

隣に写る旧型電車との対比で、新製当時の様子が良く分かる。東北本線常磐線経由青森まで、はくつるゆうづるの愛称で毎日運転された。

上目名

上目名は函館本線長万部から小樽方面へ5目の駅。数は5つでも距離は35キロもある山間の列車交換施設。狭隘な山間地に少しだけ開けた場所にある。

駅は本来は乗客が乗降する場所だけど、ここは上下列車の行き違いの為の場所だから、周りに人家は全く視界に無く山林ばかり。私が訪れた冬季には、熊は既に冬眠してるから安心だが、そうでなければ怖くて列車の写真なぞ撮っていられる場所ではない。

それでも、一応乗降の為のホームがあるから、客が皆無ではないだろうし、正式に駅として時刻表にも記載されてるから、北海道に無数にあった簡易乗降場とは違う。

小樽方に雪よけのスノーシェッドがあって、線路際を歩けないので山登りしてシェッドの上を通過して斜面に張り付くように三脚を構えて列車の通過を待つ。

真冬の北海道だから、幾ら若くても東京育ちには相当厳しい寒さだった。

やがて時間になると、遙か遠方に煙が蛇のようにくねりながら登ってくるのが見える。音は聞こえない。今迄見た蒸気の煙は上空に吹きあげて大きく拡散するのだが、ここでは山林の間をくねるように見える。

やがて、ジェット機が遥か上空を飛んでるような連続した爆音とともに時速80キロ近くの非常な高速で走る塊があっという間に目の前を通過して視界から消えてゆく。

それまでの経験を超えた圧倒的な迫力で過ぎ去り、何事も無かったような静寂に戻る。

初めての時はただ呆然と、と言うか呆気にとられた。そして強烈な印象が焼き付いた。

それが、函館行急行ニセコの撮影の記憶である。

国鉄最大の機関車C62が重連で爆走と言う表現が正にぴったりの走行風景だった。

 

上目名にて 急行宗谷が交換待ち運転停車

 

函館行 急行ニセコ

 

急行ニセコ

1967年頃蒸気機関車を撮りに出掛けた当時、急行ニセコは函館と札幌を函館本線経由で結ぶ急行列車だった。函館と札幌を結ぶルートは2つあって、長万部から倶知安、小樽を経由して札幌に至る函館本線経由と、洞爺、東室蘭、苫小牧、千歳を経由して札幌へ至るルート。こちらは千歳線経由と呼ばれていた。小樽経由より急坂や急カーブが少ない為距離は長いが時間は短縮できた為、千歳線周りの列車の方が多かった。

沿線に洞爺湖登別温泉支笏湖等の観光地が多かった事も一因だろうが、何より速達化を目指す経営方針が要因だろう。

その厳しいルートを走るニセコは、長万部から小樽まで最大の蒸気であるC62型の重連で走るから、ファンには人気があった。

何事も良い事ずくめでなく、札幌行の長万部発時間が17時間近なので、日没時間が早い北海道の冬季では、よほどの好天でも露出が厳しい時間なのだ。

何度かニセコ撮影を挑戦したが、長万部出発を狙ったのは一度だけ。後は確実に撮れる走行写真に向いた撮影地を選んだ。

小樽周りは山線と呼ばれる程峻険で厳しい環境が余程嫌われた為、衰退を続けて現在では小樽と長万部の間ですら直通で走る列車が一日にたった3本と言う超ローカル線になってしまった。沿線で優美な姿を見せる蝦夷富士も泣いているだろう。

以前洞爺のすぐ近くにある有珠山が噴火して札幌と函館の大動脈が分断された事があったが、その時ですら山線は活用されなかった。と言うより現実には活用できなかった。

単線で山越えをする路線では、一定区間毎に列車がすれ違える設備が必要になるが、その設備を殆ど廃棄してしまった為に活用できなかったのだ。

経営の効率化は重要な課題だけれど、公共交通機関は輸送の確保を社会的使命として負っているから、もう少し何とかして欲しかった。旅客はバス代行で何とかなるけど、北海道は日本の食を担う大切な産地。貨物輸送では大いに困窮しただろう。

近年線路補修が必要な場所を大量に放置して事件になったが、北海道に限っては所謂上下分離方式、線路設備の保守管理は別組織で実施した方が、日本社会にとっても良いだろうと思う。

 

 

1967年12月 長万部にて

シロクニ

シロクニこと、C62型蒸気機関車は戦前軍需輸送優先で大量に製造された貨物用機関車を旅客輸送に適した機関車の不足を補う為にD52型機関車のボイラを転用して昭和23年に製造された。一般に車軸数が多ければ粘着力が増して牽引力が増加するが、速度は落ちる。だから、日本ではD型は貨物、C型は旅客用とおおまかに区分され使われていた。但し戦時中に余りにも貨物用に偏って製造された事でD型も旅客用に使った。

だから、旅客用C型機関車を使うのは、速度重視の列車に充当された。

中でも、シロクニは当初から特急列車や急行に使われる花形機関車だった。

何せ貨物用最大最強のD52型のボイラ転用だから、国鉄史上最大、最強の旅客用機関車だった。後に実験だけだが、狭軌路線での蒸気機関車の速度記録を達成した。現代風に言えばギネス記録を保有してる。

その花形一族の頂点とも言える歴史を持つ機関車が2号機 C622だった。

二番目に製造、登録されたこの機関車は、かつて特急つばめを牽引する仕業に専属的に充当された為、特別に燕のシルエットが車体に取り付けられていた。その後特急の運用から外れ、転属した後も燕マークは残された。当時の国鉄職員達の心意気というか愛情を感じる。由緒ある機関車を大切にと言う気持ちを推し量る事ができる。

何でもレッテル貼りの為に造語まで作るメディアが「スワローエンジェル」と言う名前を付けてこの特別な機関車をはやし立てた為に、当時は小樽築港に所属して特別な扱いも無しに僚機とともに函館まで急行列車を担当していた2号機が一躍トップスターになってしまった。

その為かどうか、現在でも京都の梅小路で動態保存機として活躍している。

 

 

 

1966年小樽築港にて

布原信号所 1968年

国鉄の動力近代化計画が進捗し、各地で電化工事やディーゼル化(無煙化)が進んで来た事で、蒸気機関車が消えるニュースが各地で報道された。それを契機として、各地でお別れイベント等が催され、SLというメディア造語が出来、それに釣られて俄撮り鉄も増えてきた。

それを当て込んだ訳でも無いのだろうが、伯備線と言う中国地方のローカル線で三重連が運転されているとの情報があった。国鉄の組織は主要区分として管理局があり、局内の要衝地に機関区が設けられていた。機関車は機関区に所属して仕業を担当していた為、ダイヤによっては所属機関区へ戻る「回送」が生じる。

空でただ戻る事は無駄なのだが、どうしても往復セットと言う訳に行かない。そこで、回送を兼ねて牽引定数一杯の重量列車の補助(補機)をしながら戻る事が行われていた。布原の三重連は、この回送兼用のもので時流に乗った話題作りが推測される程貨物量の少ない路線だった。

それでも、釣られて遠路はるばる東京から出掛けたが、行ってみると周辺のあちこちに

マムシ注意の看板が立っていて同好の先人達が被害に遭ったのだろうと思うと、気味が悪かった。

後で調べたら、中国地方中部の山間地域は本当にマムシの産地と言えるほど被害も多くて病院も無いから命を落とす人も多い事が分かり、以後草の繁った道を歩く時は足元をよく見て歩くようになった。

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1968年3月布原にて

 

奥中山

花輪線の分岐駅好摩から東北本線を青森方へ進むと奥中山駅がある。ここは、東北本線の峠越えで輸送の大動脈。定期的に三重連の仕業がある、有名な場所だった。

ただ、運転時間帯と太陽の位置関係から撮影テクニックが必要な場所で、勉強不足の俄カメラマンの私には難しかった。満足の行く写真が取れていない。

蒸気機関車の写真は、冬場の方が煙や蒸気が気温の関係で撮りやすく見栄えがするので、冬季に好んで出かけるが、積もった雪の反射で被写体が真っ黒になりやすく、設定が難しい。止まっている被写体なら露出計などで値を調整できるけど、遅くても走ってる被写体では、それもできず専ら勘と経験が頼り。

しかも今のカメラのような連射機能は無く手巻きだった。

だから、多量のフィルムが残っても、見れる写真はほんの一握りしか無いのが無念。

ネガを見るたびにほろ苦い思いがこみ上げて来るけど、映画じゃないからやり直しはできない。

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1967年東北本線 奥中山付近にて