semai92117’s diary

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札幌駅

蒸気機関車を撮りに出掛けていた頃の札幌駅は地上駅だった。その当時には既に千歳線経由函館行が大勢を占めていて、小樽経由の列車は少なかった。

昔の国鉄は普通でも急行でも長距離の設定が多くて、函館発釧路行、網走行、稚内行が多数設定されていたが、千歳周りだと札幌で逆行する事になる。

それでも、小樽経由の山越え路線は特に厳しい冬季は遅延が多く、酷い時には数時間の遅れもあったようで、千歳経由を機会に、札幌で系統を分断するダイヤに置き換えが進められていた。現在では函館からは、全ての優等列車が札幌行。そして石勝線が出来てからは、手前の南千歳で帯広・釧路方面は乗り換えになり、稚内、網走方面は札幌で乗り換えになっている。

学割周遊券の有効期限3週間をフルに使うと、相応の宿賃が嵩む為に考え出したのは、札幌起終点を利用して、夜行列車に乗車して宿代わりにする事だった。勿論旅程の都合で、札幌迄戻る事は無く始発の接続駅で乗り換える。だから畳の上で足を伸ばして眠る事は稀だった。検札に来た車掌さんから、「お前らみたいのが多いから、国鉄は赤字なんだ」と途中下車のスタンプばかりの周遊券を戻しながら嫌味を言われた事もあった。

その札幌駅は、1990年に改装され全面高架駅になり、それまで吹きさらしだったホームが屋根と壁で覆われた綺麗な駅に生まれ変わった。

昔は蒸気機関車の列車も多く、今のような構造だと煙に巻かれて見えなくなるが、電化も進み蒸気は無くなったので屋根と壁をつけたのだろう。

しかし、ディーゼル列車も多数発着している為、構内にディーゼル軽油の排煙と臭気が蔓延して目が痛くなるほど空気が悪くなった。懐かしい石炭の臭いでなく油が燃える臭いだから、吐き気を伴う悪臭で折角の旅情も吹っ飛んでしまう。

昔のように発着する列車を見るためだけにホームに上る事も無くなり、整備された駅になったけれど、一刻も早く立ち去りたい場所になってしまった。

仕事で札幌を訪れる機会も多かったが、列車を待つ数分でも苦痛を感じるほど臭いのには本当に閉口した。北海道の表玄関のターミナルとしては、著しく印象が悪い駅になってしまったのは、本当に残念。

リッチな汽車旅を演出する豪華列車を運転しても、乗降する駅が我慢できぬ位臭いと言うのは、大いに旅情を削がれる事だろう。

寒さよけとの兼ね合いもあるだろうが、臭気は我慢しづらい。誰でも呼吸を止められないのだから、何とか改善してもらいたいものだ。

 

自分で撮った写真だから、あの臭いを思い出してしまう。

気動車特急 オホーツク。表記がロシア語なのも違和感が強い。

旭川機関区

旭川と言えば札幌に次ぐ北海道第二の都市と言う枕詞がつく街だけれど、私の感覚では蒸気を撮りに出掛けた1970年代後半の当時の方が現代より遥かに活気に満ちていたように思う。北海道のほぼ真ん中に位置して、石北本線で北見、網走方面と名寄を経由して稚内方面への宗谷本線が旭川函館本線に合流し札幌へ通じる交通の要衝だから、林業が栄えた当時は各産地からの集散地だったのだろう。

私が訪れた当時の旭川機関区には、C55型機関車が集まって主に宗谷本線の客車列車を牽引していた。一般的に同好の士の間ではC57型機関車が最も優美であると言われて、「貴婦人」などと言う、凡そ真っ黒な鉄の塊に相応しくない冠詞が贈呈されているが、私の中ではC55型機関車が華奢で繊細な姿で一番のお気に入り機関車だった。

C55型の動輪は、それまで標準だったスポーク型動輪の改良型で内周外側に水かきのような補強がついていた。それでも、推進力の原点である動輪への負荷に耐える為に、以後生産された機関車は全てボックス型に変更され、こちらが標準になっていた。

敢えて女性に例えるなら、逞しい筋骨のC57型サラブレッドのように繊細な足のC55型と言う事で、私はC55型の魅力に惹かれていたのだ。しかし機械物だから、性能は後発のC57型が断然良く、C55型は数を減らしていた。

 

ホームの立ち食いそばが断然美味しかった音威子府駅にて

北見機関区

機関区の片隅で、見たことの無い客車を見つけた。

種別を表す形式はマヤとなっていて、事業用である事が分かるが、窓配置から連想できる現役時代の車体と明らかに違う姿に、思わず写真を撮った。

帰った後で調べても詳細は判らずだった。しかも床下から蒸気らしい煙が見え現役時代には無かった煙突もついていて、実際に使われているらしい。ここからは推測だけれど、この車両は現場で働く作業員達が休憩する詰め所として使われていたのではと思う。寒冷な北見で客車を詰め所として使うには、両端の通路の開放部は塞がないと使い物にならない。その為に妻板を恰も展望車のようにガラス窓に改造したのだろう。

ぱっと見たら、如何にも実車としてありそうな表情をしている。

詰め所代用にしては、随分と手の込んだ改造(改良)をしたものだと思う。

現場で働く人達の職場環境としては、現代風に言えば極めつけの3-4K職場のうえ、極寒の地だから、せめてもの休憩所として頑張って作ったのではないかと勝手に想像して、微笑ましく思った。

 

機関区

蒸気機関車を求めて写真を撮りに出かけると、走行写真だけでは出会えなかった機関車に会いに最寄りの機関区を尋ねた。昼間は沿線で走行写真を撮り一段落すると機関区訪問と言う行程が定番だった為、午後の遅い時間や夜間と言う事も屡々だった。

電気機関車は停電でない限り通電すれば動くが、蒸気機関車は石炭と水が必須なだけでなく、一定間隔で石炭の燃え殻を除去する必要があり、交通の要衝毎に設けられた機関区には昼夜を問わず仕業の合間の機関車が頻繁に出入りしていた。

入ってきた機関車は例外なく火床の掃除をし、給水と給炭をして簡単な足回りの点検をして次の仕業に就く準備を整えるから、機関区にはその為に必要な設備や人員が整えられていた。そして、前後が峻別された蒸気機関車は、向きを変える為の転車台が備えられていた。現代になって地方の割合大きな駅へ行くと駅の規模に不釣り合いな広大な敷地が空いていたりするのは、嘗て蒸気機関車の時代に設置された様々な必要関連設備の名残の空き地なのだ。既に駅前再開発等で消滅して昔を偲ぶ事は難しいけれど。

1967年頃の国鉄には全国に約180程の支区を含めた機関区があったが、私が尋ねたのは、ほんの一部だけど、多くの機関車に巡りあい写真に撮った想い出の数は、走行写真を撮った想い出の数より遥かに多い。

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独特の筆致で記された看板の北見機関区は石北峠を越え旭川へ通じる石北本線の旅客と貨物が主業務。吉村昭氏の著作にも出てくる常紋の険しい坂がある。

 

当時の主(ぬし)はC58の1号機。今は厚化粧させられて梅小路で眠っている。

 

世界初 寝台電車

寝ようとしても周りが騒がしいと眠れない人が多い。だから鉄道の寝台車と言えば客車と言うのが世界の標準だった。しかし客車列車は速度が遅い。せっかちな日本人は、何と世界初の寝台電車を作って大阪から九州方面の夜行列車に投入した。このせっかちが幸いしたのか、国鉄の防音対策が効を奏したのか極めて好評だったので、増備型が作られて中古が定番だった青森方面に新車が配備された。

九州方面への世界初の電車寝台列車は、愛称が月光と名付けられたのに因んで月光型と呼ばれた。

当時普通寝台は三段式が標準だったので、この電車も三段だが欲張って昼間は通常の客車として使えるように線路方向に平行に寝台がセットされた。従来の客車寝台は、線路と直角に三段だから丸い屋根の頂点まで使えるが、平行だと頂点部は通路になる為、高さが確保できず、寝台セット時に座高分の高さを確保できなかった。起き上がって服を着る事は不可能で、寝たまま服を着ると言う、決して良い環境とは言えなかった。

因みにグリーン寝台も線路と平行に寝る方式が標準だが、上下二段なので充分な高さが確保されていた。

そんな電車だが、最高運転速度130キロの俊足で従来の客車より早く着ける事はのんびりした東北方面でも好評だった。実は出発から到着までの時間は、経営効率に多大な影響がある。分り易いのは、昔の九州連絡の列車で24時間以上掛かる列車が多かった。例えば11時発翌日13時着の列車だと、終着の前に翌日の発車時刻が到来するから、全く同じ名前、編成の列車が必要になる。長距離を走る列車の宿命だけど、コストが嵩む。従来の寝台車はヒルネと言って昼間も寝台のまま座席車として遠慮しながら使ったが、この電車は下段の寝台だけソファとして使うが、後は全部収納して通常の座席車として使うよう設計して、昼夜無関係に使用された。その為回転率が飛躍的に向上し効率が上がった。1968年に同好の会でこの初物が公開されたので、興味深々で見学に出掛けた。運用前の訓練期間中の公開だった。

 

隣に写る旧型電車との対比で、新製当時の様子が良く分かる。東北本線常磐線経由青森まで、はくつるゆうづるの愛称で毎日運転された。

上目名

上目名は函館本線長万部から小樽方面へ5目の駅。数は5つでも距離は35キロもある山間の列車交換施設。狭隘な山間地に少しだけ開けた場所にある。

駅は本来は乗客が乗降する場所だけど、ここは上下列車の行き違いの為の場所だから、周りに人家は全く視界に無く山林ばかり。私が訪れた冬季には、熊は既に冬眠してるから安心だが、そうでなければ怖くて列車の写真なぞ撮っていられる場所ではない。

それでも、一応乗降の為のホームがあるから、客が皆無ではないだろうし、正式に駅として時刻表にも記載されてるから、北海道に無数にあった簡易乗降場とは違う。

小樽方に雪よけのスノーシェッドがあって、線路際を歩けないので山登りしてシェッドの上を通過して斜面に張り付くように三脚を構えて列車の通過を待つ。

真冬の北海道だから、幾ら若くても東京育ちには相当厳しい寒さだった。

やがて時間になると、遙か遠方に煙が蛇のようにくねりながら登ってくるのが見える。音は聞こえない。今迄見た蒸気の煙は上空に吹きあげて大きく拡散するのだが、ここでは山林の間をくねるように見える。

やがて、ジェット機が遥か上空を飛んでるような連続した爆音とともに時速80キロ近くの非常な高速で走る塊があっという間に目の前を通過して視界から消えてゆく。

それまでの経験を超えた圧倒的な迫力で過ぎ去り、何事も無かったような静寂に戻る。

初めての時はただ呆然と、と言うか呆気にとられた。そして強烈な印象が焼き付いた。

それが、函館行急行ニセコの撮影の記憶である。

国鉄最大の機関車C62が重連で爆走と言う表現が正にぴったりの走行風景だった。

 

上目名にて 急行宗谷が交換待ち運転停車

 

函館行 急行ニセコ

 

急行ニセコ

1967年頃蒸気機関車を撮りに出掛けた当時、急行ニセコは函館と札幌を函館本線経由で結ぶ急行列車だった。函館と札幌を結ぶルートは2つあって、長万部から倶知安、小樽を経由して札幌に至る函館本線経由と、洞爺、東室蘭、苫小牧、千歳を経由して札幌へ至るルート。こちらは千歳線経由と呼ばれていた。小樽経由より急坂や急カーブが少ない為距離は長いが時間は短縮できた為、千歳線周りの列車の方が多かった。

沿線に洞爺湖登別温泉支笏湖等の観光地が多かった事も一因だろうが、何より速達化を目指す経営方針が要因だろう。

その厳しいルートを走るニセコは、長万部から小樽まで最大の蒸気であるC62型の重連で走るから、ファンには人気があった。

何事も良い事ずくめでなく、札幌行の長万部発時間が17時間近なので、日没時間が早い北海道の冬季では、よほどの好天でも露出が厳しい時間なのだ。

何度かニセコ撮影を挑戦したが、長万部出発を狙ったのは一度だけ。後は確実に撮れる走行写真に向いた撮影地を選んだ。

小樽周りは山線と呼ばれる程峻険で厳しい環境が余程嫌われた為、衰退を続けて現在では小樽と長万部の間ですら直通で走る列車が一日にたった3本と言う超ローカル線になってしまった。沿線で優美な姿を見せる蝦夷富士も泣いているだろう。

以前洞爺のすぐ近くにある有珠山が噴火して札幌と函館の大動脈が分断された事があったが、その時ですら山線は活用されなかった。と言うより現実には活用できなかった。

単線で山越えをする路線では、一定区間毎に列車がすれ違える設備が必要になるが、その設備を殆ど廃棄してしまった為に活用できなかったのだ。

経営の効率化は重要な課題だけれど、公共交通機関は輸送の確保を社会的使命として負っているから、もう少し何とかして欲しかった。旅客はバス代行で何とかなるけど、北海道は日本の食を担う大切な産地。貨物輸送では大いに困窮しただろう。

近年線路補修が必要な場所を大量に放置して事件になったが、北海道に限っては所謂上下分離方式、線路設備の保守管理は別組織で実施した方が、日本社会にとっても良いだろうと思う。

 

 

1967年12月 長万部にて